楠正成が活躍した時代
楠正成は父とされる正玄が31歳の時、まだ子供を授からないことで悩んだ妻が信貴山朝護孫子寺の毘沙門堂で夢に金色に輝く鎧を着た人が神の子と連想して生まれた男児を正成と名づけ、毘沙門天王の化身とも噂されています。産まれた子供の多くは母親の元で育てられ正成の母が橘氏なら、男性が女性の宅へしのぶ時代だったので、楠正成も幼少の頃は中河内に勢力があった母の出身である橘氏の勢力圏で生まれ育ったことが推測されます。
楠木一族は河内国を中心に勢力を持った深く神仏に深く帰依し、修験道や真言密教にも通じていた一集団で、後の世に忠臣として称えられ、非理法権天という言葉や弟正季が言ったとされる「七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ七生滅敵」という言葉から七生報国という言葉もうまれたことからみて、楠正成はそこの棟梁だったと考えられます。呪詛も12歳の時から兵法を南河内加賀田の大江時親に学んだと伝わっています。
1331年に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動の元弘の乱で楠正成は、後醍醐帝の挙兵に呼応して、後醍醐帝の皇子・護良親王の吉野山・金峯山寺蜂起や難波・河内国の悪党として南河内の下赤坂城で挙兵したのが、有名になったきっかけです。楠正成は、文観弘真の真言立川の教義を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を新田義貞などの武将が呼応して立ち上がり、1333年に鎌倉幕府を滅亡させています。
滅亡後、楠正成は河内守、河内・和泉の守護職に任じられ、記録所の寄人や雑訴決断所と恩賞方の奉行にも任じられましたが、後醍醐天皇による建武の新政が不満をつのり、足利尊氏は1334年朝廷に反旗を翻し京に攻め上りますが、この時は楠正成の策略が用いられ朝廷側が勝利してます。しかし九州へ落ち延び再度上ってきた足利尊氏軍と戦う為、楠正成は再度迎撃に任命されたが700騎ほどしか集まらず、摂津国湊川で迎え討ち敗死してます。
楠正成の銅像は、明治23年愛媛県別子銅山の開坑200年を記念し、時の住友家当主、友忠が、皇室に対する忠臣としてその名を知られた楠正成の銅像を、自らが経営する別子銅山の銅を用いて鋳造し、現、宮内庁に献納すること由来になってます。友忠は銅像の完成を見ることなく、若くして亡くなりましたが、その遺志を継いで銅像を献納したのが、記文に名前を残している住友吉左衛門で依頼された東京美術学校が明治29年に完成を遂げています。