奈良県桜井市 纒向遺跡と邪馬台国
纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけて建造されたと推定される大集落の遺跡です。桜井市の西部にあり、JR桜井線(万葉まほろば線)の巻向駅周辺に広がっています。纒向遺跡の名称は元々この辺りが磯城郡纒向村と呼ばれていたことに由来しています。更にさかのぼって纒向村の村名は垂仁天皇の纒向珠城(たまき)宮、景行天皇の纒向日代(ひしろ)宮から名付けられたものであります。
纒向遺跡はちょうど弥生時代から古墳時代へと時代が移り変わる3世紀に建造されたと推定されています。そのため、ヤマト政権発祥の地として、あるいは今でも謎の多い卑弥呼の邪馬台国の、西の九州の遺跡群に対する東の候補地として、今も多くの研究者や遺跡ファンにとって論争の的になっている全国的にも有名な遺跡です。纒向遺跡の中には沢山の古墳も見つかっており、我が国の古墳の出現時期や古墳時代の開始時期を巡る論争の中心地としても重要な遺跡です。
纒向遺跡には同じ時代の他の遺跡に比べて、類を見ない広大な面積を有しており、そこからは他の地域で作られ搬入されたと思われる土器が多数出土しています。その比率は全体の15%にもなり、かつその作られた範囲が九州から関東に至るまでの非常に広範な地域であることや、箸墓古墳を代表とする多くの前方後円墳が日本で初めて築かれた地域と推定されることから、日本最初の「都市」の遺跡、あるいはヤマト政権最初の「都宮」と考えられています。
纒向遺跡内は1937年に初めて土井実氏の「大和志」において紹介されました。発見当初は特に研究者の注目を集める遺跡ではありませんでした。しかし、1970年代に周辺に小学校建設計画が持ち上がり、橿原考古学研究所による事前調査が行われると事態は一変しました。広大な面積から遺構や遺物が発掘され、纒向遺跡の全容が明らかになるに連れて、その特殊性や重要性が高まっていきました。上述した邪馬台国の東の候補地として纒向遺跡の名前が持ち上がると、その名前は全国的に知られるようになりました。
纒向遺跡にはまだまだ多くの謎が残っています。その一つに、纒向遺跡は大集落と言われながらも、人が住んでいた集落跡が発見されていないことがあります。現在発見されているのは祭祀用と推定される建物や土杭、祭祀用具、物流のための運河などばかりなのです。このことや各地から沢山の土器などの物資が集まっていることから、居住域ではなく、箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地ではないかと考える学者も多いようです。