鶴岡八幡宮の歴史と鶴岡八幡宮の境内をご紹介
鶴岡八幡宮は神奈川県鎌倉市にある神社で、別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれているようです。鎌倉武士の守護神でもあり、鎌倉初代将軍である源の頼朝ゆかりのある神社であることからも、全国にある八幡社の中でも知名度が高いと言われております。また近年ではこの鶴岡八幡宮は、三大八幡宮の一社に入るとも言われております。八幡神と総称されている現在の祭神は、第15代天王である応神天皇、比売神、第14代仲哀天王の妃の神功皇后の3柱です。
鶴岡八幡宮の始まりとは何だったのかについてご紹介していきたいと思います。1063年(康平6年)8月に河内国を本拠地とする河内源氏2代目である源頼良義が、前九年の役での戦勝を祈願したとされている京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として歓請したのが始まりであるとされております。また、1081年の永保元年2月に河内源氏3代目である源義家(八幡太郎義家)が修復を加えたと言われております。
平家を倒すために兵を挙げて鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、宮を治承4年の1180年に現在の地である小林郷北山へと遷しました。鶴岡八幡宮は、建久2年の1191年に社殿が焼失をしてしまったことをきっかけに、上宮と下宮の体制にし石清水八幡宮護国寺を歓請しました。そして、承元2年の1208年に神宮寺が創建されたと言われております。源頼朝が鎌倉幕府を開いた後に武家の崇敬を集めましたが、幕府が衰退した後には僧坊の数も減少し一時衰退しました。
戦国時代に入ってからは、鶴岡八幡宮の戦いで里見氏によって焼討ちにあってしまいますが、北条氏綱が鶴岡八幡宮の再建を果たしました。江戸時代に入ってからの鶴岡八幡宮は、江戸幕府の庇護を受けて規模が大きくなっていきました。江戸幕府が崩壊した後慶応4年の1868年に、明治政府から神主を兼帯していた僧侶に対して還俗するという内容の通達があったこと、また明治3年に大教宣布がなされて鶴岡八幡宮においても廃仏毀釈が始まりました。
鶴岡八幡宮の境内についてですが、大石段上にある本宮は徳川家斉が再建したとされる流権現造で、国の重要文化財に指定されております。61段ある大石段を登ると桜門があり、その奥には拝殿と繋がっている本宮があります。境内には北条政子が掘らせたのではないかと言われている源平池があります。源氏池には島が3つあり、平家池には島が4つあり、それぞれ産と死をあらわしているようです。鶴岡八幡宮の参道は、先に進むほど細くなっており、目の錯覚を利用して長く見せ本殿を厳かに見せていると言われております。