石川県の襖(ふすま)の張替えにスピーディーに対応!!
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■鳥の子襖紙の種類
新鳥の子(普及品) |
上新鳥の子(中級品) |
鳥の子(高級品) |
手漉き本鳥の子(最高級品) |
襖張替えのタイミング
襖の張り替えは、状態がシミや黄ばみ・日焼けなどで汚れている場合に行います。また、お子さんなどのいる家庭は破ったり落書きされたり、ペットによって傷つけられたりなどという目立った傷や汚れがある場合に張り替えするのが良いです。
襖を自分で張り替えするのは難しいです。襖には本襖と戸襖と2種類あり、自分の家の襖がどちらなのか見極めなければいけません。また戸襖は、枠がはずせないので自分で行うには苦労します。また張り方も何種類かあります。
プロのようにのりを自分で張ったり、アイロンや水で張ったりといった方法があります。しかし、見た目も良くしっかり張れるのりは、プロが行う方法なので難しく空気などが入ってしまうとボコボコ見た目も悪く失敗してしまいます。
ですので、襖の張り替えはプロにお任せするのがおすすめです。表具屋さんは、たくさんあるのでオンラインで何社か調べてみるのが良いです。無料で見積もりをお願いできるところもあるので、複数見積もりを取って比較し適正価格を知ることができます。
また、襖のデザインもたくさんあり柄も選べます。値段も色々なので気に入ったものを選ぶのが良いです。張り替えにかかるのは、1日足らずで終わってしまうので気になったらすぐにお願いするのが良いです。張り替えるだけで、きれいな部屋に生まれ変わらせることができます。
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石川県永平寺町の日本曹洞宗の大本山 永平寺
永平寺は、石川県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。京福電鉄の永平寺駅を降りて、徒歩5分ほどで竜門跡に着く。そこまでの喧噪とはうって変わり、チリひとつない参道が、樹齢600年と言われる杉並木に挟まれて続き、荘厳な雰囲気を漂わせている。その参道をしばらく行くとやがて、いかめしい構えの総門に達する。廃人松尾芭蕉が「奥の細道」の中で「邦畿千里を避けて、かかる山陰に跡を残し給うも、貴きゆえありとかたや」と描いた永平寺総門である。永平寺は、寛元2年(1244)に、領主波多野義重が道元禅師を招いて建立したもので、日本曹洞宗の大本山であり、禅宗の修行道場である。この寺は、初め志比の庄内市野々の東、傘松の西に建てられ、笠松峰大物寺と命名されたが、寛元4年(1246)に中国に始めて仏教が伝えられた時の暦号に因んで「永平寺」と改称された。のち五世義雲が入寺してからは。宋風も大いに振舞ったので新たに現在地に移し九世宋吾の時に出世の道場と定められ、後円融院より「日本曹洞第一道場」の扁額を賜った。今日では、年間400万人以上の観光客が訪れ、禅の世界的な流行もあり外国からの参拝客も多く、いまや北陸随一の観光地として知られている。寺院の建築は中国の天童山をまねて建てられたもので、七堂伽羅をはじめとして総棟数70余堂閣が山の斜面を利用して整然と並び、そのすべてが回廊によって結ばれ、建物の面積は33万m2に及ぶ大寺院である。
(道元禅師)
道元は、日本曹洞宗の開祖で希玄と号し。一般的には仏法房と呼ばれていた。正治2年(1200)、内大臣久我通親の三男として京に生まれたが、3歳で父を亡くし、8歳にして母に死別した為に深く世の無常を感じ13歳の時に比叡山に登って出家した。ついで三井園城寺の公胤の門をたたき、建仁寺に栄西を訪ね、明全について学び貞応2年(1223)、24歳の春、正伝の仏法を求めて入宋した。諸山を歴苞訪して後に天童山に入り、如浄に深く傾倒して悟りを開き、在宋5年、28歳の時に日本に帰国した。はじめは宇治のの興聖寺にあって、約10年大いに伝法の実をあげたが、この間に会った越前の領主波多野義重に懇請されて。寛元元年(1244)越前山中に入った。翌2年(1253)傘松峰大仏寺を建立し、この後、約10年の間、深山幽谷の閑居あって法を説き続けたが、建長5年(1253)に健康が優れなかったのを理由に、永平寺を義价に託して上洛したが、療養のかいもなく、同年8月28日に京都で54歳の生涯を終えた。