襖ふすま

 大阪市天王寺区の襖の張替えは、大阪圏最安値の当店で!!

 襖ふすま紙には鳥の子と織物系とがあります。
鳥の子の場合、原料や製紙方法や模様付けや印刷・加工方法によって普及品から最高級品まで非常に幅広く揃っています。
襖の張替え只今キャンペーン中!!

襖紙には、手漉きの和紙から機械漉きの普及タイプまで非常に多くの種類が
揃っています。
また織物系のふすま紙もあり、織糸の種類や撚糸の数さらに印刷やの後加工の
方法により高級なものから普及タイプまで多くの種類が揃っています。
織物系襖紙
それぞれの価格については、お気軽にお問い合わせ下さい。
※サイズは幅90cm×高さ180cmが 基準です。
これ以上のサイズはお問い合わせ
下さい。ご注文は2枚からお願いします





                                                     



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襖ふすま紙について

■鳥の子襖紙の種類

新鳥の子襖紙

新鳥の子(普及品)

パルプ紙で漉きも柄付けも機械なので、
価格もリーズナブルです。
種類も多く揃ったお求め易い商品です。
  
襖ふすま紙

上新鳥の子(中級品)

上新鳥の子は機械漉きのため比較的低価格です。漉き模様や後加工による多くの柄や材質があり、種類については一番ボリュームがあります。

鳥の子襖紙

鳥の子(高級品)

本鳥の子が手漉きで作られるのに比べ、鳥の子は機械で漉きます。さまざまな技術によって紙の風合いも、手漉きに近いものが出来ます。

手漉き本鳥の子襖紙

手漉き本鳥の子(最高級品)

本来は手漉きの雁皮紙をさします。
その色合いが鶏卵の殻の 淡黄色に似ているところから鳥の子と呼ばれました。
現在は雁皮や三椏、木材パルプ等を混ぜたものもあります。

(画像はイメージです)         雁皮(ガンピ)の花
和紙襖の原料がんぴの花

雁皮紙(がんぴし)は、ジンチョウゲ科の植物である雁皮から作られる和紙です。

雁皮の成育は遅く栽培が難しいため、雁皮紙には野生のものの樹皮が用いられます。古代では斐紙や肥紙と呼ばれ、その美しさと風格から紙の王と評される事もありました。
繊維は細く短いので緻密で緊密な紙となり、紙肌は滑らかで、赤クリームの自然色(鳥の子色)と独特の好ましい光沢を有しています。
丈夫で虫の害にも強いので、古来、貴重な文書や金札に用いられました。日本の羊皮紙と呼ばれることもある様です。

引き手

引き手は、開け閉めの際の襖紙の傷みと汚れ防止の役目があります。
引き手は、手加工の貴金属や陶器の
ものからプラステック製の廉価なものまで多種多様に揃っています。

引き手 引き手引き手引き手引き手 陶器製 引き手引き手引き手

襖(ふすま)は、中国から伝わった障子が寝殿の間仕切りとして使われるようになり、
中国から伝来の、隠蔽性の高い厚手の唐紙が使われるようになり、貴族社会に普及して行きました。
平安時代の貴族達の住宅様式は、部屋の中に仕切りを作らず、通気性を優先した
寝殿造りと言われるものでした。
今で言うパーティションとして、屏風などを使用していました。
やがて屏風などに代わるものとして、障子が中国から入ってきました。
 そして寝所に使われる障子を衾(ふすま)と呼ぶようになりました。
当時寝所のことを「臥す間(ふすま)」と呼んでいました。
 「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」を意味するものであった為です。
襖の語源は衣服のあわせから来ています。衾(ふすま)も最初は板状の衝立の両面に
絹裂地を張りつけたものだったので、衣服にならって襖(ふすま)と呼ぶ様になりました。
初期の形状は、かまちに縦桟や横桟を組み両面から絹布などを貼ったものでしたが、
やがて中国から伝わった厚口の紙(唐紙)が襖に使われるようになり、襖と障子が明確に分かれて行きました。その為、襖のことを唐紙と呼ぶことがあります。  
また、障子は明障子(あかりしょうじ)と呼び分けられる事もあります。
 武士の時代になり、襖に絵を描き華やかな部屋を演出するようになって行きました。
そして今に残る数々の襖絵が描かれ有名絵師が登場しました。
そして江戸時代になり、豪商たちが襖を使うように成り、少しづつ一般の庶民にに広がって行きました。


■襖は日本の美しい伝統技術で再確認する襖の素晴らしさ

いくら世の中の変化がめざましいといっても、襖と関わりをもっていない日本人はいないといえます。それほど襖は日本人の生活と深い関わりをもっています。しかし、その襖について考えてみる日本人は少ないです。あまりにも身近にありすぎて、日本人の生活に溶け込んでしまっているからです。襖は、座敷の世界に独特の空間や味わいを生み出します。造形の美しさが部屋に落ち着きや格式を与えます。
職人が丹精を込めて入念に造り上げられた襖には、技術の集積や製作者の造形へのあざやかな手運びといったもの、あるいは座敷としての味わいや美しさを感じられずにはいられません。襖には、空間に独特の粋を作り出す表現の豊かさがあり、出来映えの妙をみせてくれます。襖はあまりにも身近になりすぎて、無意識になっているのが実情です。伝統や造形への創意工夫を集積してきた襖の技術の妙があるのです。
襖は日本人の生活習慣のなかで、普段は目立たない存在でありながら、軽視することのできないものです。襖のある座敷から生活作法が生まれて、茶道は育まれ、社会的な秩序を形成する土壌にもなったのです。襖のある空間のひろがりは、造作の丹念さや柄の妙など、その技術そのものから生じているといえます。そのような意味でも伝統を重ねてきた襖の技術の見直しは、古くて新しいテーマといえます。
襖の素晴らしさを探ることや、長年にわたって集積してきた伝統技術の妙技を新しい時代に生かしていくことが、今後ますます必要になります。座敷のもつ安らぎ感や落ち着き、静かな佇まいといったものが、襖の存在と切り離して考えることはできません。襖のある座敷の味わいや美しさを知り、日本住宅における素晴らしさを再認識し、より良い座敷への欲求思考が高まることは、日本人にとって素敵なことです。
襖が単なる住宅部品ではなく、より良い座敷空間を作り出すための座敷造形です。襖という日本独特の造形は、日本人の生活の知恵によって生み出された傑作といえます。襖の伝統性や気候風土との適応性、そして生活への結びつきといったものを考えてみると、襖という日本独特の造形を表現するには、そのような言葉がぴったりと当てはまります。今こそ再び襖の魅力を再確認することが、グローバル社会だからこそ大切になってきます。

畳と襖の調和と建築に対しての襖などの関係性

襖の起源を追うと、最も原始的な形式は開口部を必要に応じて塞ぐことのできるものです。そして屋内の空間を仕切って部屋を作るためには土壁以外に、仮設的で可動的な壁が誕生したのです。そしてそれを開いて出入りができ、また必要に応じて全部取り外し屋内を広く使用することもできるのです。こうした関係から襖は、建築に対して構造的関係はもたないのです。これは畳と共通する点があります。
それは畳が古く円座、菰にはじまって、置き畳へと推移していく過程と襖が共通するのです。つまり源氏物語絵巻などに見る当時の住宅にあっては、畳は高貴の人、あるいは見上の人に対する高座として敷く置き畳として、板敷きの床に一部敷かれていたのです。現在の座布団に相当する役割から進化、発展してきた流れをみると、畳も襖同様に、当時は建築に対して構造的関係はもっていなかったといえます。
襖と同列の屋内空間を装飾装備する道具として、共通的な立場にあったといえます。畳や襖に関しては、置き畳などの敷きつめる段階に入り、近年は住宅産業下における一部勢力となりながらも、住宅建築に関し建築士もしくは大工の多くは畳や襖の制作に関して、畳業者や襖業者に一任し、建築生産の一環として、畳や襖をとらえようとしています。昔は襖の制作に関しては、経師と呼ばれる表具師にその制作が一任されていたのです。
それは襖が建築に対して、構造的関係をもたないからだということは先にも述べましたが、畳についても江戸時代をはじめとした武家社会、あるいはそれ以前の貴族社会にあって畳刺、畳師として、その技術が重宝がられ、時代の推移する昨今にあっても畳、襖、あるいは表具の世界は技術がしっかりと温存され、伝統性の一面を見せています。畳と襖は、日本建築の内部構造、近年ではインテリアを作り出すものという考えもあります。
そして畳と襖は、その歴史に共通性を多く残しており、日本の住宅建築の平面と立体を構成する主力要素として現在の存在価値を高めています。またその調和システムに日本在来住宅の特徴があると言わしめるまでに成長してきているのです。近年における畳と襖がその伝統性を脱却して、建築生産の一環として徐々にではありますが、その立場を見直される傾向は、日本住宅建築の多様化も関係しています。


大阪天王寺の地に聖徳太子が四天王寺を建立した理由とは

大和の飛鳥の地に法隆寺を建立し「憲法十七条」を制定したことなど事績の多い聖徳太子であるが、彼は大阪に四天王寺を建立したことでも知られる。彼の生まれた頃には、朝廷内では物部氏と蘇我氏との対立関係が出来上がっており、両氏はまた排仏・崇仏を巡っても対抗する関係にあった。聖徳太子の父である用明天皇は「仏法を崇めよ」との詔を残して崩御されたと伝わるが、この大王の崩御をきっかけとして起こった大王後継者争いを巡って両氏の緊張関係は頂点に達し、遂に蘇我氏が物部氏をその拠点である現在の大阪に攻めるに至った。太子は崇峻天皇を奉じる崇仏派の蘇我氏側に付いて、蘇我軍と共に河内国(大阪府東部地域)に入ったとされる。元々が軍事を司る部民であった物部氏は激しく抵抗し、蘇我氏は苦境に立たされた。この時、聖徳太子は、戦勝の暁には四天王のための寺院を建立することを誓い、四天王の助力によって蘇我軍を窮地から救ったとされる。そして、物部を平らげた後、太子は現在の四天王寺の地(大阪市天王寺区)に伽藍を営み、物部の支配していた土地と人民を全てそこに納めさせたと「四天王寺本願縁起」に記されており、つまり、この二大豪族の抗争が大阪に四天王寺が建立された動機であるとしている。しかし、これのみをもって大阪に四天王寺が建立された由来とするのは適切ではないとする意見もある。当時の大和政権は、豪族間の反目という内憂の他に、任那日本府を滅ぼした勢いに乗って百済を圧迫し始めていた新羅や、高句麗と覇権を争っていた隋の勢力が外患となっていたが、これら当時の北東アジア情勢は、百済などから我が国に仏教文化と共に流入していた。四天王寺の伽藍配置なども、百済を経由して入って来た寺院建築様式である。このことから、聖徳太子はこうした外患から国を護ることを祈願する目的で四天王寺を創建したとも考えられる。一方で、四天王寺のあった場所は当時の大阪湾岸に位置しており、これが海外使節に最初に目に留まることを意識したものであるとの説もある。瀬戸内海を東に行けば自然に難波津(大阪市浪速区)に到達することで知られていたことからも、大阪に四天王寺が建てられた理由としては一応の説得力はある。四天王寺の規模は壮大で、当時としては世界最大級であったろう。つまりここは日本の国威を海外に対して示すための存在でもあったとも考えられる。奈良は海外の使節を迎えるには不便であり、ここからも大阪に造営する必要性を感じさせる。聖徳太子は蘇我氏勢力を抑え、推古天皇と共に二頭政治を行ったが、太子の死後、再び実権を握った蘇我氏は専横を極め、それがために中大兄皇子らによって滅ぼされた。改新政府は人心一新を目的として難波宮に遷都し、ここは仁徳天皇の高津宮以来の大阪の都となった。

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価格表

「何故そんなに安いの?」
 良く聞かれます。
「安物の畳表(たたみおもて)や
襖(ふすま)紙じゃない」
いいえ、材料の問題では有りません。
 職人さんの手間賃と配送工事費用を
ギリギリまで圧縮する事で、値段は
下がるのです。
 もちろん大量仕入れにより材料費の大幅な圧縮もしています。
しかし決して手抜きは致しません。
 質の良いものを安くして、初めて激安の意味があります。
 とにかく、現物見本を見て下さい。
 大阪の襖の見積もりお電話1本で、駆けつけます。

お見積もり無料 出張料も要りません

  アフターケアもご安心下さい。

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障子に対するイメージとして、「修復するのが面倒くさい」というのがあります。確かに障子の修復と聞いて考え付くのは張替で、障子の張替は大仕事なイメージがあり、さらに破れやすいので頻繁に張替なければならないと考えると、面倒だと考えてしまうのも頷けます。しかし障子の修復作業は、思っているほど大変な作業ではありません。意外と簡単に障子は修復できてしまいます。障子の修復は、大体の場合「破れて穴が開いたから」するものです。しかし破れて空いた穴というのは、大きさは大小様ざまです。もし穴が小さいのであれば、張替は必要ありません。開いた穴をふさいでしまえばいいのです。例えば柄の違う和紙や紅葉などを貼って、穴をふさいでしまいましょう。よほど下手くそでない限り、デザイン性があり意外と美しくまとまります。もちろん量が多くなってくると継ぎ接ぎの様で汚く感じてしまうようになってしまうかもしれませんが、そこは腕の見せ所です。もし空いた穴が大きかったら、もしくは前記の方法が限界になってしまったら、張り替えるしかありません。しかし、障子の張替は実はそんなに大変ではありません。網戸の張替と同じ要領で、網戸の張替よりも楽です。障子を張替えるとき一旦すべて外さなければならないため、大変そうに見えているだけです。