
宮崎市スピーディーに対応します!!
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畳の部屋のメリットについて
新築の一軒家を購入したり、従来の部屋をリフォームする場合において、和室を作る人が近年増えていると言われています。
それに伴って、畳の効用についても雑誌やテレビなどで取り上げられることがあります。
畳の和室を設置するメリットとしては、畳の部屋というのはその匂いや部屋の雰囲気から気持ちが落ち着くことが挙げられます。
これは近年、脳科学のデータとしても人間の知覚や臭覚作用として畳の部屋の匂いというものは気持ちを落ち着かせる効果があると主張する研究者がいます。
また畳の部屋を設置することによって、囲碁や将棋をする際に集中できるという事が挙げられます。
もちろん、洋室でも将棋や囲碁はできますが、本格的に集中して行うためには畳の和室が最適だと考えられます。
また畳の部屋のメリットとしては、畳の香りや落ち着いた雰囲気によって夜に眠る際は熟睡ができるというメリットがあります。
これは長期的に考えた場合において、睡眠時間の充実は健康の維持にとって大きなメリットとなります。
また、年配の来客が訪れた際にも畳の和室があることによって、安心して部屋に案内をする事ができます。
また来客の人数が多い場合においても、洋室のように椅子を用意する必要がないために、畳の部屋は多くの来客に対応できるというメリットがあります。
襖のある家づくりについて
襖はその様々な絵柄で人の目を楽しませるだけでは無く、日本特有の「間仕切り建具」として古来よりわたし達の生活を快適に彩ってきました。襖を構成する化粧縁(上・下・両側)、上貼、折合釘、引手。これら6つの部品には数多くの種類があり組み合わせ次第でシンプルなものから豪華な雰囲気を醸すものまで、住まう人の好みや個性を反映させられるのです。襖一つ間仕切りに取り入れると部屋の用途に応じ、開け閉め取り外しが可能ですし、手軽に部屋の雰囲気を変えられるのも利点でしょう。襖紙ひとつとっても、和紙からビニール類まで用途や予算に合わせてその選び方は様々。また装飾品としての美しさばかりでなくその機能性を引き出すために最も重要なのが下地です。和襖といって、その内部に木製の組子骨を芯材とした本格的な下地に対し機械生産の量産襖はコスト軽減に一役買ってくれるが、耐久性や湿度調整機能、室内のホコリを吸収するといった快適な部屋を追求するなら、値は張るものの前者を選びたい。しかし、こうでなければ、というルールに捉われるのではなく、自分の生活に合う事を前提に、時には信頼できる表具師にかけあって、襖のある生活空間を楽しく想像しなばら、素敵な家作りを実現していくのがベストでしょう。
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宮崎市の歴史探訪
九州の東南端、宮崎市のほぼ中央に位置し、県の文教・政治・経済の中心であると同時に、東九州の中心都市でもある。
東部は一ッ葉浜や日南海岸の北部を占め、海岸線の延長は約40キロメートルに及んでいる。北西部は穀倉地帯である。
高岡・国富・佐土原の3町に接し、南部は林産資源の豊かな北郷町・日南市に隣している。大正13年に宮崎町・大淀町・大宮村が合併して市制施行、昭和7年に檍村、同18年に赤江町、同26年に瓜生野・木花・青島・倉岡の4村同32年に住吉村、同38年に生目村を編入して現在の市域色が定まった。
市北部・住吉地区の蓮ヶ池台地から、西方の池内・瓜生野にかけての台地には、多くの横穴式古墳があり、この一帯が古代の住居跡であったことがうかがえる。
また続日本記には、神護景雲2年768年のころに日向国宮崎郡の文字が見え、宮崎(古くは埼と書いた)という地名がかなり古くからあったことを示している。日向国図田帳によると、日向国は平安初期において、そのほとんどが荘園になっており、現在の地図で見れば、大淀川を境に、北は宇佐宮領の宮崎荘、南は八条女院(鳥羽天皇の皇女)の国富荘となっていた。
その後、鎌倉時代には、曾我曽我兄弟に討たれたことで有名な工藤祐経が地頭に任ぜられ、代々その職を継いだが、いずれも任地へは赴かず、6代目伊藤祐持の時に、初めて日向に下り西都市都於郡を本拠にして各地に出城を築いた。市内池内と上北方の境にある郡丘上築かれた宮崎城もその一つであった。当時、延岡には土持氏があり、鹿児島には島津氏があって、共に勢力を競っていたが、天生5年1577年伊藤氏は島津の軍門に降り、所領はすべて島津氏に属した。
やがて九州は、天正15年、秀吉によって統一され、宮崎延岡藩の所領となったが、江戸時代に入ってから、一国一城の制によって宮崎城は廃され、現在の市域も、延岡・佐渡原・飫肥・薩摩の各藩に分割されて所属した。その後延岡藩に属した地域の一部は幕僚になり、あるいは高鍋藩に分属された地域もあって、宮崎市は、藩政時代には諸藩の勢力が交錯し、ついに中心となる城も持たないままに明治を迎えた。