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襖は和室の中では、間仕切りや押入れの開口部材の機能があり、和室をおしゃれな雰囲気にする装飾的な役割もあります。襖に木骨芯を使用することで、雨の日が続くなど湿度の高いときは湿気を吸収したり、晴れの日が続いて乾燥すると湿気を排出します。調湿機能は部屋の状態を整える役割もします。襖紙は、和紙が何重にも重なっているので効果的です。 たばこの煙やホルムアルデヒドも一緒に吸着するので、空気清浄効果もあります。
定期的な襖の張替えで、これらの機能性を高めることができます。そのうえ、襖は断熱性もあります。襖は、クギや木、紙など天然素材が使われており、張替えで何度でもきれいにすることができます。長く使える優れた建具です。
襖の張替えは、業者に依頼すると、きれいに仕上げてくれます。部屋の雰囲気を変えたいときには、襖紙を今までと異なるデザインのものを選ぶことができます。子供部屋にはかわいい柄、お花が好きな人には華やかな花柄、高級感のある素材もあります。襖紙を張替えることによって部屋の中が明るくなります。
破れていなくても、汚れや色あせが目立ってきたときは、襖の張替えがおすすめです。すがすがしい気持ちになり、気持ちよく暮らせます。
畳は和室の床に敷く敷物として、昔から使われており、日本人には馴染みの深い物だと思います。その構造は、表面に見えている部分である畳表と、土台にあたる畳床、そしてその周りに縫い付けられている、畳縁から成っています。畳表にはイ草が使われており、国産の物の他に中国産の物もあります。今は価格の安い中国産の物の方が普及していますが、国産の物は風合いがよく、耐久性が強いと言われています。また最近では、化学繊維が使われた化学表も開発されています。こちらはイ草を使った物と比べると、カビやダニの発生を抑えられ、耐久性にも優れていますが、特有の香りを感じることは出来ません。畳床は、稲ワラを重ね、それを圧縮して作られていましたが、現在は住宅の断熱性や気密性が高まっていることから、それらに適したポリスチレンフォームやインシュレーションボードが使われるようになり、稲ワラのみの物は減少傾向にあります。畳縁には、昔から使われている、綿や麻などの天然素材の物と、ポリエステルやポリエチレンなどの化学繊維が使われた物があり、現在は化学繊維の物が主流となっています。昔ながらの物が少なくなるのは寂しい気もしますが、それぞれに利点があるので、選択肢が増えたことは利用する側にとって、喜ばしいことなのではないでしょうか。
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我が国には、海を持たない内陸県が8つある。その中で面積でも起伏標高の点でも最も大きいのが長野県である。
西境沿いには北アルプス、南西部を中央アルプス、南は南アルプスとそれぞれ3000m級の山々が山稜を連ねている。中央部には八ケ岳連峰その北には筑摩山地が続く。山間に散在する長野・松本・伊那・諏訪・佐久等の盆地も標高の高い点では我が国の代表的な盆地ばかりで、木曾・天竜・千曲川など中部地方を代表する河川も県内に源をい発している。日本の屋根や日本のスイスなどと称されるゆえんである。
長野県内に散在する先土器文化や縄文の遺跡から、数万年前の太古までの人々の足跡をたどることが出来る。
7〜8世紀、南信濃に諏訪大社を奉載する諏訪族が存在したことが古事記に見られる国取り物語等から推察出来、同じ頃、北信濃には善光寺を中心とした文化が芽生えていた。
平安末期には木曾義仲が木曾谷に兵を挙げ室町期には小笠原氏・諏訪氏など多くの豪族が割拠した。戦国期、川中島を中心に繰り広げられた上杉謙信と武田信玄の激闘は有名である。
この地域には、中世を通じて信濃国を統一し得る実力を有した士豪は生まれていないが、これは険しい山々が各地の交通を隔てていて、行き来を著しく隔てていた事にも一因があると思われる。江戸時代にも松本・小諸・高遠など11藩と天領など20余りの領地が並立していて、信濃全体としては、まとまっていなかったが、江戸と京都を結ぶ中山道が通り他地域の人々との接触も多く、文化的閉鎖性からは免れていた。それどころか絶えず江戸・上方の文化に接し先進的な気風と信濃国全体の団結力も強く教育にも熱心で、明治期に入ってからの信濃教育会を中心とする高度な教育への熱意に表れ、長野県の明治初期の学童就学率は東京・大阪などを抑え全国でも一位であった。現在でも長野県は、我が国有数の教育県となっている。
信濃の国は、山がちで耕地に乏しい上に、寒冷な気候が長い間庶民生活を苦しませ続けた。しかしこの自然環境も交通の発達と共に、次第に克服されて今では県の重要な観光資源と成っている。北アルプス連峰や上高地、志賀高原、軽井沢などなど枚挙にいとまが無い。戸倉、上山田、野沢、湯田中、浅間など80を越える湯量豊富な諸温泉や諏訪湖、野沢湖、白樺湖、その他多くの清流や風光明媚な大小の河川など県全体が観光地と言える。
長野県上田市は県の東部に位置し。東信地方及び上小地域の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぎ3番目の規模の都市である。古代、信濃国分寺が設立されるなど、開発の歴史は古いが中心地の上田は、天正年間(1573〜92)に真田昌幸が上田城をい築き、町屋を形成したのが都市的起源である。以来、幕末まで上田藩5万3千石の城下町として発展、明治、大正期は製糸工場の町として栄えた。製糸不況後は電気製品、精密機械、自動車部品などが市の主要産業と成っている。千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。史跡上田城跡・信濃国分寺跡や生島神社・安楽寺・常楽寺などの名所がある。
都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる旧・真田町がある。ここは東境沿いには湯ノ丸・小在地・町場山・北境には四阿山・根子岳・保基谷岳、西境には高遠・大道山など標高1200mを越える山々が峰を連ね、これらの諸山に源を持つ、神川・洗馬川・傍陽川などが合流して流下する南部中央のみが上田盆地に向かって開け、全面積の70%近くを林野が占める。上田と言えば、何と言っても真田氏の発祥の地であることは、はずせません。
戦国末期に活躍し、天正年間活躍した真田氏は上田城に居を移す前に居城としていたのが、同地域にある松尾城と言う山城である。真田幸隆・昌幸・幸村のいわゆる真田家三代の発祥の地である。真田氏は信濃源氏海野氏の流れをくみ、室町末期、海野棟綱の子幸隆が、松尾城に住んで真田氏を名乗ったのに始まる。幸隆は初め葛尾城主村上義清に、後に武田信玄に仕えた。天正2年(1574)幸隆の没後、嫡子信綱が継ぎ、信玄・勝頼に仕えたが、同三年(1575)長篠の合戦で弟の昌輝と共に戦死した為、三男昌幸が家督を継ぎ、勝頼に属して上田を領することと成った。この際松尾城に本拠を定めた。今も城は比較的良く旧態を留め、山腹にくっきりと城郭跡を残している。またこの松尾城跡の南麓、角間川沿いの日向には日向畑遺跡がある。室町から戦国期にかけての真田氏ゆかりの一族の墳墓とみられ、石造宝篋印塔・五輪棟・鉄器・古銭などが出土している。近世上田藩松平氏五万三千石野本拠になっていた平城の路で、維新後廃城となり、現在は上田公園として一般に公開されている。城は天正11年(1583)真田昌幸の築城で慶長五年(1600)中仙道を関ヶ原へと向かう徳川秀忠の大軍を、昌幸、幸村親子がここで食い止め6日間に及ぶ籠城戦を繰り広げたことは有名である。関ヶ原の役後、昌幸。幸村は紀州の九度山へ蟄居となり、慶長16年昌幸が没し、幸村は大坂冬の陣で、勇猛果敢に戦ったあげく闘死した。この幸村の闘いぶりは今でも人々の関心を集めて、大阪の街の地名などに残されている。