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畳の効果と扱い方について
古くから日本で使われ続けている畳は現代においても多くの家庭で使用されています。ですが、最近ではそんな畳の事をよく知らない方も少なくありません。例えば、畳にはたくさんの素晴らしい効果があります。見た目や香りによるリラックス効果に始まり、空気を清浄にして部屋の湿度を調整する効果、余分な音を吸収してくれる防音効果、冬や夏を過ごしやすくしてくれる断熱効果や保温効果など、実は知られていないだけで畳は非常に優秀なのです。また、畳には数年ごとのメンテナンスが必要だということを知らない方も多いです。例えば、数年使用した畳は傷まないように、畳の裏返しを行わなければならないし、7年ほど使用したものだと、表替えといわれる畳の表面の部分の張り替えを行う必要が出てきます。そして、10年以上使用したものならば、新しいものに張り替えてしまうのが理想的です。長く使用して傷んだ畳は、本来持つ様々な効果を失ってしまいます。そうなるのを少しでも遅らせるためには、定期的に手入れやメンテナンスをして大切に扱う事が大切です。なので、畳が家にあって、最近傷んできたなと感じる方などは一度専門の業者に相談してみるのが良いのではないかと思います。
プロの襖の扱い方の秘密
一般的に道具の扱いには知識も必要になっています。しかし素人が専門知識を得るためには時間が掛かります。和室の道具は扱い方も大変なので、一流のプロに相談することが大事です。実際にプロに相談すれば襖のメンテナンスをすることも可能です。襖は汚れが落ちにくいので専門知識を使って対処すべきです。現代でも和室の道具は幅広く使用されています。当然のように和室には襖の存在があるので、汚れや劣化を見逃さないことが重要です。特に古い襖は劣化していることが多いので注意が必要です。そういった劣化に気付いた際にはプロのスキルが役立ちます。具体的には襖を交換する時にプロの力が必要になるのです。様々な道具のプロたちは独自の技術を持っています。その技術は家具を安全に交換する時に使います。襖を交換する場合もプロたちの手助けが鍵になります。こういった道具は重さがあるので扱い方も難しいです。また襖はデザインが繊細なので傷付けると危険です。やはり襖を扱うならプロの知恵を頼ることが現実的です。襖に詳しい人間たちはその歴史を理解しています。実際に襖を扱うなら歴史を知っていることも重要になります。そういった基礎知識を持った相手はメンテナンスでも力を発揮できます。
網戸の網をステンレスの網に張替える
網戸というとポリプロピレン樹脂で作られた網を張った物が一般的なのですが、実は網の素材としてはポリプロピレン以外にも幾つか種類があります。代表的な物を挙げると、ポリプロピレン、ポリエステル、グラスファイバー、そしてステンレスなどがあります。このうち最も丈夫な網とされるのが、ステンレスです。ステンレスという事は即ち鉄製の網という事ですから、丈夫だというのは特に理由を聞かなくても想像できるでしょう。ステンレスなので錆びにくいですし、他の網に比べて汚れが付きにくいという事でメンテナンスも楽です。さらに樹脂製と比べて熱にも強いですし、劣化のスピードも遅いので状態が良ければ20年以上そのままでも使えるほどの長寿命です。そんなステンレスの網ですが、現在使っている網戸を張替えてステンレス製の網にする事も可能です。一般的ではありませんが、ペットのいる家庭などでは網戸をステンレスの網に張替えるというのは珍しくありません。ただ網戸をステンレスの網に張替える場合には、樹脂製の網に比べて張替えに専門的な技術が必要です。そもそもステンレスの網自体一般には流通数が少なく、また高価という事もあって、自分で張替えるというのは非常に難しいです。網戸の張替えをしてくれる業者に依頼すれば問題なくやってもらえますので、ステンレスの網に張替えたい場合には業者を利用する事を前提にして計画を立てるようにしましょう。
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富山県の自然と伝統
富山県と言えば、誰しもまず、越中富山の薬売りを連想するであろうはが、富山県を訪ねてみると、その表情は極めて多彩である。
この県を地形的に見ると、東から南にかけては飛騨山脈・西には丘陵性山地が連なり、平野部はこれらの山岳・丘陵地帯に囲まれるようにして北の海に面している。いわば内陸的には閉鎖的な地形を示し、気候もまた晩秋から春先まで陰うつな日がつづき、冬は深い雪に埋もれるといった具合である。
古代にこの地が国司として大伴家持ちを迎えたことは、この県の歴史に一輪の花を添えることになったが、距離的には中央とそれほど遠くもないのに、久しく辺地の状況におかれることになったのも、こうした地形に由来によるものであった。したがって、この地は中央を追われた貴族や権力者たちの避難の場所になり、隔絶された生活の中で当時の文化や風習が伝承され温存されることにもなったのである。
各地に歴史の足跡を辿ると、国府のおかれた伏木を中心に万葉遺跡・修道道華やかなりしころをしのばせる立山街道と芦峅寺、あるいは源平合戦の倶利伽羅峠をはじめ、平家の落人や南朝偉人伝説にまつわる五箇山、太平記にも記された放生津城における名越一族の最期、一向宗の進出と井波瑞和泉寺・神保長職と富山城・上杉・武田両雄の葛藤・佐々成政の武勇と雪の立山越え、また、太閤記にでてくる、黒百合の伝説等、なかなか興味のある事件も少なくない。
江戸時代は加賀藩と支藩の富山藩の治下におかれて明治を迎えたが、この間に富山売薬の歴史が始まる。富山売薬は、天和年間、富山2代藩主前田正甫のとき、岡山の藩医万代常閑が製法を伝えたされるが、冬の裏作に恵まれない農家の次男、三男が、出稼ぎとして行商始めたのが起りだとされている。雪を踏み分け、荷を背負って村里を後にする彼らの姿を想像すると、きびしい生活と自然の条件の中で生き抜いてきた北国の人々の一つの気風を思わずにはおれない。やがて貨幣経済の伸展とともに、売薬は富山藩の産業の中でも最も重要な位置を占めることになったが、津々浦々にまで足を伸ばした行商人たちによって、富山の名は全国に高まったのである。
富山県では、いまもこの配置売薬制度を越中独特のものとして誇る風があるが、医療に見放されていた当時の人々にとって、富山売薬が果たした役割は極めて大きなものがあった。いまもなお富山の製薬は活況を見せており、この伝統は、今後とも長く富山県の印象を支えていくものと思われる。
(越中おわら風の盆)
おわら風の盆は、富山県富山市八尾地域で毎年9月1日から3日にかけて行われている富山県を代表する行事(祭り)である。越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了する。おわら風の盆が行なわれる3日間、合計25万人前後の見物客が八尾を訪れ、町はたいへんな賑わいをみせる。
(富山藩の産業)
2代藩主正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、越中売薬の基礎を築いた。売薬業は、先立つものとして立山その他の山岳修験者による修験売薬があったが、藩が力を入れた売薬業者がやがてこれにとって代わり、元禄年間には全国にわたる行商圏が確立された。やはり他国に配置行商したものに蚕種があり、八尾町がその中心であった。その他の産物としては、山間部での製紙、呉羽丘陵での茶の栽培などが挙げられる。また、現在、駅弁として知名度の高い富山名産の鱒寿司は、3代利興の頃に鮎寿司とともに作られるようになったとされる。
飛騨方面との交易が盛んで、米や海産物の他、加賀藩で生産された塩も富山藩を通じて販売された。