品川区内スピード対応!!
■国内産上質障子紙使用の障子も
全国最安レベルのキャンペーン価格でお届けしています。
●東京都品川区のお見積りもスピーディーに対応で、
もちろん無料です
●出張料や運搬費ももちろん無料です。
(画像はイメージです) それぞれの価格については、お気軽にお問い合わせ下さい。 |
雪見障子一部がガラスになって |
●障子の柔らかい、人に優しい光は、癒されます。
障子紙は光の透過率が40〜50%といわれています。丁度ガラスのような透明なものと、壁などの遮断物の中間にあり、日光の暖かい感じを残しながら、直射日光を適度に遮蔽してくれます。
そして、障子に差し込んだ光は、各方向に散乱してどの方向から見ても均一に美しく明るく見え、室内全体を同じ明るさで、優しく包んでくれます。この和紙は強い天然繊維を不規則に重ね合わせて作りますので、繊維間に不規則で多くの隙間が出来ます。
この為、障子は独特の柔らかな風合いをかもし出しています。
障子は、襖ふすまと同じように部屋の
間仕切りとして使われますが、その大きな違いは
採光にあります。遮蔽性を保ちながら、やわらかい光を取り入れることで部屋全体を優しい空間にします。最近は洋間と組み合わせて、やわらかいお部屋を演出する事も有るようです
組子の組み方や、障子紙の選び方により、
実に多くの趣をを味わうことが出来ます。
■障子紙の効果 | |||
和室に利用される障子は、部屋に穏やかに光を取り入れることが可能で、空間デザインにも重宝します。古い障子は黄ばみやくすみが出て部屋を暗くし、印象も悪くなるため年に1回程度は貼り替えを行うことで、綺麗で趣きのある和室を維持することが可能です。タバコを吸ったりペットを飼っている場合には汚れやすくなりますし穴もあきやすくなりますから、定期的に貼り替えが出来るように障子紙をストックしておくと良いです。小さな汚れや穴のために全面を貼り替えると大変なので、部分的に貼り替えるのもおすすめです。 (吸湿効果)
(断熱効果)
(照明効果を高める)
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破れにくい障子紙最近増えてきたのが、強化障子紙と |
最近破れ難い障子紙を求めるお客様が増えています。
和紙にビニールなどの樹脂を貼り合わせたものや、硬いプラスティック
を貼り合わせたり、挟み込んだもの等があります。
その構造により強度などに違いがありますので、それぞれの特性も
考え合わせてお選び下さい。
■破れにくい障子紙には、材質や加工方法に
よって様々な種類があります。
(無地と雲竜紙があります)
破れ難く水にも強い!破裂強度は一般の障子紙の約4倍です。
通気性を抑え、汚れ難い性質もあります。
(無地と雲竜紙があります)
和紙にプラスティックにをラミネート(貼り付け)しています。
和紙の特徴を残しつつ丈夫な品です。
ワーロン 無地 | 雲竜 |
実際はもっと白に近い色目です |
(無地、雲竜紙や日本の伝統色シリーズ等)
和紙をプラスティックで両面からラミネート(貼り付け)しています。
耐水、耐久性に優れています。
照明器具など広く使われています。
障子についての起源と利便性〜障子は便利〜
障子と言えばかつては日本のどの家にも付いていた、日本家屋の必須のものでした。しかし最近では西洋文化の影響で、障子がある家というのはだんだんと減ってきています。しかし、障子は日本人の心といても過言ではない物。まだまだ多くの家屋に使われている現役のものです。しかし考えてみると、障子なんて言う、「紙で区切りを作ろう」なんて事を思いつき実行しているのは日本だけです。
何故西洋には障子というものがないのでしょうか。これは、西洋人の気質と大きく関係しています。例えば、西洋の庭を想像してみてください。西洋の庭は、自然を自分たちの手で永遠的に作り変えようという思想を端々に感じる事が出来ます。その為、使われるものも石等、永続的に残るものでつくられています。これは西洋の庭だけでなく、西洋家屋全般でも見られます。つまり西洋人は、障子の様な壊れやすい物を嫌い、永続的に存在すると思われる重く硬い物を好んだのです。
こうして西洋では区切りは石や金属で作られ、障子の様な軽いものが家屋の設備として生まれる事はありませんでした。では日本は、何故障子が生まれたのでしょう。これも、日本人の気質にあります。つまり障子は、何でもかんでも曖昧にしてしまうという日本人気質の表れなのです。遠い昔、平安時代なんかだと、貴族の家の一般的な区切りは完全にふさがれる事のない頼りないいただけだったし、一般人の家には区切りなんてものはありませんでした。また、日本の家には縁側や土間などがあり、家の外と中との区切りもあいまいです。その他に、日本の庭は遠くの風景、例えば富士山なんかを利用した庭づくりをしていて、庭の境界もあいまいなのです。そう考えると、障子はそれ等の延長線上のものではあるものの、日本人にしてはかなり区切りを意識した設備であると言えるかもしれません。さて、そんな障子に余り使い勝手が良くないというイメージを抱いている人はいると思います。障子は音が漏れてプライバシーがない、破けやすくてなおかつ破けたところの見た目が汚い等のデメリットがあります。しかし、障子にはそれを補って余りあるメリットがあるのです。まず障子は光を通すので、家全体を明るくしてくれます。また障子は、何といっても軽く、開け閉めが簡単です。特に光の効果は、密集し光が入りにくい家が多くなった今、ふたたび注目されています。これからまた、障子の評価は上がっていくことでしょう。
品川区の地域性と歴史
品川区は東京都の特別区のひとつで、23区の西部に位置しています。品川区行に人々が暮らし始めたのは、いっまから6,7千年前の縄文時代早期にさかのぼります。武蔵野台地の東端にあたる品川区には、目黒川・立会川の隆起に縄文時代前期から晩期の貝塚遺跡が発見されています。なかでも大森貝塚は、1877(明治10)年にアメリカの動物学者E・Sモース博士によって発掘調査が行われ、考古学発祥の地として全国に知られるところとなりました。日本最初の発掘調査報告書「大森介墟古物編」は、日本の考古学研究の指針となりました。品川区内にはこのほかに、弥生時代や古墳時代以降を含めると24か所の遺跡が存在します。奈良時代から平安時代に入り、品川区付近には都(みやこ)と国府を結ぶ古代の東海道が通っていたと推定され、大井には中継点としての駅家(うまや)があったと考えられています。この時代から品川区は交通の要地となっていたことがうかがえます。江戸時代の品川について説明します。
江戸時代の品川区は、五街道で最も交通量が多い東海道の最初の宿場として栄えていきました。品川宿は、江戸四宿のうち唯一海に面した宿場であり、名所や魚介類の名物が多く、風光明媚な土地として、四季折々に江戸市中から多くの人々が訪れたのです。幕末になると品川台場の築造をはじめ英国公使館焼き討ち事件など歴史の舞台ともなりました。明治になり品川にはいち早く鉄道が敷設されました。官営品川硝子製造所が設立されるなど近代工業の先駆けとなりました。このような背景から、品川区は京浜工業地帯の発祥地として発展していきました。関東大震災以降は一層開発が進み、田畑が宅地や工場へと変わり、私鉄が次々と開業しました。こうして品川区全体が都市化していったのです。第二次世界大戦の空襲で区域の多くが焼け野原となりながらも、はやばやと戦後の復興を遂げ、近年では工場跡地などの再開発により新しい街がつくられ、産業や文化の伝統を守るとともに、情報発信として世界に大きく羽ばたこうとしています。品川区の祭りは、長い歴史を持っています。そして今でも当時の活気をそのままに引き継がれています。神輿が練り歩き、お囃子が聞こえてくると多くの人々の心が騒ぎます。祭りは時代を超えて人々の心を掻きたててくれるようです。特に夏から秋にかけては祭りが多く、品川区内の賑やかさはひとしおです。また寺社では季節の移り変わりごとに多彩な行事が行われ、昔からの伝統が今でも息づいています。おもな祭りに「南の天王祭」や「目黒のさんままつり」などがあります。
東京都/品川区
平安時代末期から中世にかけ、現在の品川区の中央部を領有していたのは、豪族大井一族であったが、やがて北条氏の支配を経て、徳川氏の江戸入府後は幕府の直轄地となった。大井・上下蛇窪・中延・小山・上・下大崎・桐ヶ谷・居木橋・谷山・二日五日市などの村々がそれで、江戸近郊農村として発展した。
一方、南・北・北川町が東海道の宿駅として、江戸の入り口となってにぎわっていた。しかし、江戸の人口の増大、交通量の増加にともなって、品川宿の助郷に指定された近郊の農村は、人馬提供の課役負担に苦しみ、肥えた農地も、諸大名や旗本の邸宅地になったほか、広々とした畑地・山林原野が多かった品川筋・目黒筋などは、将軍の鷹狩りの場所として利用された。当時、区内を流れる目黒川の沿岸一帯は、せまいながらも水田が開け、武蔵野原にはめずらしい米産地であったという。明治維新を迎えて、品川県となり、同4年東京府となり、明治21年施行の町村制によって、品川宿6カ村が品川町、大崎5カ村にいまの白金猿町の一部が合併して大崎村、大井地域はそのまま大井村、荏原5カ村は平塚村となり、1町3カ村となって荏原郡に属した。
明治18年に山手線の大崎ー目黒間が開通、同41年大崎村・大井村に町制がしかれた。これは、明治中期から大正時代にかけ、交通機関の発達とともに、目黒川・立会川の両河川や、海岸周辺を中心に多くの工場が設けられ、人口も次第に増加したことを物語っている。
大正12年の関東大震災では、区内の被害は幸いに少なく、都心部から移転する人も多くなり、また、昭和2年、池上線・目蒲電鉄大井町線(現東急大井町線)、同4年第1京浜国道(国道15号線)が開通、都市化に一層の拍車がかけられた。昭和元年、平塚村が町制をしき、翌年荏原町と改称、昭和7年に東京市に隣接する5郡が東京市に編入した際、品川・大崎・大井の3町が合併して品川区に、荏原町は荏原区となった。このころから、区内には軍需工業や、その下請工場が相次いで建設されたが、昭和20年の戦災で鳥有に帰した。昭和22年、品川区と荏原区が合併して、新たに品川区が誕生した。
戦後の区の発展は海岸に向かってすすみ、品川埠頭の埋め立ても終わり、電気機械工業・重化学工業を主体とする京浜工業地帯の一環をになっている。区内には、鈴ケ森刑場跡・史跡台場跡・東海寺・船の科学館などの見どころがある。
アフターケアもご安心下さい
【年中無休・受付時間】
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障子はお部屋のフィルター
煙草の煙やほこり等をどんどん吸着します。
I様邸
畳、障子の張替え
おしゃれなお茶室に成りました
Y様邸
障子の張替え
障子はお部屋のフィルターです。
G様邸 障子張替え
T様邸 障子張替え
G様邸
障子の張り替え工事を頂きました。
H様邸
障子の張替え
A様邸
Y様邸
障子の張り替え交換修理
最近の家屋には、和室が少なくなってきましたが、和室には障子が用いられます。一見何の変哲もない木の枠組みと紙に見えますが、障子にはさまざまな効果があります。まず、まぶしさを和らげる効果が挙げられます。障子を通した場合、日光が半分くらいの明るさになります。障子は光をおだやかにするのです。その効果はガラス窓だけの場合と比較するとよくわかります。夏場の強烈な日光をガラス窓はほぼそのまま透過させますが、障子は半分ほどに光を和らげるので、夏の暑さを軽減させるはたらきもします。冷房を使ったとしても、障子の効果で省エネになります。冬場は、夜間の放射冷却を防ぎますので、ガラス窓だけの場合よりも快適です。熱が逃げにくいので、暖房費の節約にもなります。さらに障子は、嫌な結露も防ぎます。障子によって空気がガラス面に直接触れるのが防げるので、結露が起きにくくなるのです。驚くべきことに、障子は部屋の換気も行います。障子紙は、自然の素材でできていて、多数の細かい穴があいています。この穴を通して部屋の空気を少しずつ入れかえています。日本は湿度が高いので、自然な形で常に換気を行ってくれるはたらきはとても貴重で、優れた特性です。
東京23区の南東部にある品川区は、40万人に迫る人口数を擁している区です。品川区の東部が東京湾に面しており、港区と江東区、目黒区、大田区、渋谷区に隣接しています。品川区の木はシイノキとカエデに制定されており、区の花はサツキに制定されています。品川区が誕生したのは1932年10月のことであり、1947年3月に荏原区を編入したことによって、現在の区域となりました。品川区は多くの鉄道路線が通る区であり、JR線だけでも6路線が乗り入れています。その他には東急線の3路線と都営地下鉄の2路線、東京メトロ南北線、京浜急行本線、東京モノレール、りんかい線などが品川区を通ります。停車駅も多くの駅が品川区に置かれていますが、東海道新幹線が停車するターミナル駅である品川駅は、隣接している港区に置かれている駅です。路線バスは都営バスと京浜急行バス、東急バスによって運行されており、首都高速道路や一般国道も品川区を通過しています。品川区は戸建てや集合住宅など、住宅も多く建設されている地域ですが、品川駅周辺を中心に企業も多いです。また、しながわ水族館や大井競馬場、天王洲銀河劇場などの施設があるのも品川区であり、多くの顔を持っています。