群馬県みどり市の襖(ふすま)の張替えに
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■鳥の子襖紙の種類
新鳥の子(普及品) |
上新鳥の子(中級品) |
鳥の子(高級品) |
手漉き本鳥の子(最高級品) |
良い襖というのはかなり家の雰囲気をよくしてくれます。実に上品な雰囲気にしてくれるわけですが、実際問題として襖は結構汚れることになります。汚れくらいであれば張替えることで、まだまだ使えるようにはなります。しかし、この襖の張替えはかなり手間でもあります。まず襖の上紙を剥がして、そこを綺麗に拭いた上にそこに新しいものを貼り付けていくという形になるわけで結構手間というよりは綺麗にやろうとするとかなり技術が求められることになります。だからこそ、最初から襖の張替えをしてくれる業者に任せてしまうのが一番良いです。どんな風に任せることができるのか、といえば簡単に言えば表具屋とかはないそうやと言ったようなところが襖の張替えを請け負っていますから、そこにまずはアプローチしてみるとよいでしょう。いくらかかるのかということもそうですしどんな襖に仕上げてもらうことができるのかということなども確認してみると良いでしょう。面白い襖紙でやってくれる張替え業者なんかもあったりします。自分でやらないことの最大の利点は綺麗に仕上がることが確定的、ということもありますが、なにかと面白いものも見つけられる可能性がある、ということでもあります。
襖には色々と種類があるわけですが、その場合、しっかりとした張替えをしないといけないわけですが、自分でやる場合はかなり覚悟が必要になります。つまりは、とてつもなく面倒であるということです。張替えが面倒という程度であればよいのですが、上手くできるのが難しいということになります。張替えを綺麗にするためには素直に業者に襖の張替えを依頼することがよいでしょう。襖の張替えのときに考えることはどんな風に仕上げて欲しいのかというイメージが自分の中にしっかりとあるのかどうかということでしょう。そのイメージがあるのであれば意外と明確に業者としてもやりやすかったりします。そして、襖の張替えはいくらかかるのか、ということも重要でしょう。襖をしっかりと綺麗にしてもらうためにはなんといってもコストがどのくらいかかるのか、ということがポイントです。一枚あたり5000円前後が多いです。手間暇などを考えたときにはそのくらいはそこまで大きな金額であるとは言いがたいことでしょうから、いっそのこと手間がかかると思っているのであればお願いしてしまうことです。但し、業者の技術の良し悪しがあるのも確かではありますから、それは比較するようにしましょう。
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群馬県みどり市は、群馬県の東部に位置して旧新田郡笠懸町、旧山田郡大間々町、勢多郡東村が平成の大合併により誕生した。人口約51000人 総面積208.23km2の市である。笠懸町は赤城山の南東麗にあたり北西部と南東部に小丘陵が分布する他は概ね平坦な土地である。中世に親田庄として拓け、近世には幕府直轄領、旗本領などに細分化されて明治を迎えた。農業は養蚕、野菜栽培、養豚、養鶏などで、桃が特産品でもある。
(阿左美縄文式文化住居跡)
昭和12年12月阿左美駅のプラットホームの拡張工事中に発見された遺跡で今から3000年〜3500年ほど前の縄文時代後期の住居跡で、南北に15m余り離れて2基ある。県の史跡指定である。北側のものは当時の地表面を20cm〜30cm掘り下げて作った縦穴式住居跡で、直径は約4m。床面の中央に7個の川原石で円形に囲った径50cm余りの炉跡がある。出土物は石皿・磨製石器・石斧のほか土器破片など。南側の一基は、北側のものと異なり地表面をわずかに掘りこんで河原石を詰め込んで敷きつめた敷き石式住居である。床面の中央に細長い石で囲った一辺約70cmと60cmの方型の炉跡があり炉縁から南へ2m余り離れて直径15cm、深さ40cm程の柱穴がある。出土品は石つい凹石などで柱穴と炉縁の間から高さ40cm口縁部径20cmほどの縄文式土器が発見された。このように近接して異なった様式の住居が見つかるは珍しいこととされている。
(岡登影能の墓)
岩宿駅の西、国瑞寺の境内にあり県の指定史跡。岡登は江戸時代の初め足尾銅山奉行で赴任後現在の笠懸南部から藪塚本町・新田町にかけて新村8ケ村を開発しさらに水不足に悩む郷民達を救う為笠懸御用水を開削。しかし貞亨4年(1687年)に非業の死を遂げた。しかしこの用水は今も新田郡北部の田畑を潤し続けていて、村では景能の命日に当たる12月3日、毎年例年祭を行ってその遺徳を偲んでいる。
(岩宿遺跡)
岩宿遺跡は、赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」と呼称される。稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていたが、相沢忠洋によれば、初めてローム層中で打製石器を発見したのは、この道路の切通においてであった。相沢は当時、納豆の行商をおこないながら熱心に考古学研究にいそしんでいた。
1949年(昭和24年)、杉原荘介の主導による明治大学の発掘調査で、切通しの北側がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認された。
下層の岩宿I文化(約3万年前)と呼ばれる石器群は、地表の下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に包含されており、楕円の形状をなす打製石斧2点の他、掻器類、2次加工のある刃器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩が認められる。同層からは多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。この結果は、旧石器時代の段階における植物資源の広汎な活用を示唆する。この暗色帯の最上部には姶良Tn火山灰(AT火山灰)が確認されており、このことより、岩宿I文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼると考えられる。
A区上層の岩宿II文化(約2万年前)は、上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする文化で、瑪瑙、頁岩、黒耀石、安山岩などさまざまな石材が用いられている。