新潟県の襖(ふすま)の張替えにスピーディーに対応!!
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■鳥の子襖紙の種類
新鳥の子(普及品) |
上新鳥の子(中級品) |
鳥の子(高級品) |
手漉き本鳥の子(最高級品) |
ふすまの素晴らしさ
襖とは、和風住宅の部屋同士を仕切る建具のことです。広い空間仕切る目的で古くから用いられてきた歴史があります。壁ではなく、取り外し可能な襖という建具を用いることで、空間を多種多様な目的で利用することが可能になります。普段の生活、様々な会合や会議、または祭りなどの催し物、宴会など人が集まる場では非常に便利なものです。このように襖によって柔軟に部屋の大きさを変化させて、一つの空間を利用するというのは、日本文化ならではと言えます。
また、襖には部屋を仕切るだけなく、明かりを遮ったり、保温・保冷を保つ機能、有害物質を遮る機能など多種多様の役割があります。これは壁同様とも言える襖ですが、やはり自由度を持っているという点で優れています。また、この材質の多くが木と紙等の天然素材を用いられているので、調湿作用を持っています。湿度が高ければ吸収し、逆に乾燥している場合は水分を放出するという働きを持っています。昔からこういった機能を利用していたのです。
また、枠が木で作られていることが、もう一つの利点です。扉というと、どうしても隙間から風を通してしまうため、ゴムなどでふさぐようになっています。しかし、襖では木そのものが空気中の水分を吸収して膨らんだり縮むという特性を持っているため、寒い冬には隙間影を防いでくれます。また、取り外しが可能ということは、取り換えも容易です。寒い冬には調湿機能を持つ和紙等を表面に張ったものを使用することで保温機能を最大限に利用します。
春や秋であれば、簡単に開け閉めすることで温度調節が可能です。何の道具を使わなくても、ちょうど良い風を通すだけの襖同士の幅を開けておけば良いのです。それも、風邪を入れたい場所を選んで隙間を開けることが出来るのは、優れた特性です。さらに、もっと暑い夏であれば、すべての襖を簾をはめ込んだものに変えてしまえば、それぞれの部屋を仕切り、不要な視線を遮りながらも最大限の通風が可能となるのです。素材自体が涼しさを演出するという作用も持ちます。
そしてもう一つ、鑑賞されるための美術品としての役割をも襖は長い歴史の中で担ってきました。数々の絢爛豪華なお城では、その城主である武将が自らの権力の象徴として、襖を美術品まで格上げしてきました。高名な書道家や絵描きにより、ある時は華やかに飾り立て、ある時は脅威を与えるために迫力ある動物の絵などを描かせています。それらは歴史を超えて、私たちの目を楽しませてくれています。歴史を超えて、色あせない芸術作品とのなっているのです。
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今の新潟県。越後の国では、かって南北朝争乱の中で、上杉氏は関東管領や、越後・相模・武蔵などの守護職となるが、上杉氏に従い越後守護代として各地に戦い、実力を蓄えて行ったのが長尾氏である。この長尾氏の末が上杉謙信である。応仁の乱(1467〜77)で統治組織は乱れ世は下剋上の時代となったが、越後守護代である。上杉謙信の父長尾為影もまたその一人で、主家である関東管領上杉顕定、越後守護代である、上杉房能の二人を攻め滅ぼし事実上越後国主大名の座についた。この為景の三男が長尾影虎、後の上杉謙信である。天文17年(1561)兄晴景と争って家を継ぎ、春日山城主と成って永禄4年(1561)には、上杉憲政から上杉の姓と関東管領の職を譲られ、元亀元年(1570)には名も謙信と改めた。北条氏康・武田信玄と対抗してしばしば信濃・関東に兵をすすめたが、特に武田信玄との、川中島の合戦は有名である。天正6年、武田・北条氏と和議を結び織田信長と覇権を争おうと大軍を集め、京都に向かう直前に春日山城山城で急死し、その雄図は空しく終わった。近世に入って金山で栄えた佐渡は、中世、越後と共に、配所の月に涙する流人の地でもあった。承元元年(1207)念仏教団弾圧の際、親鸞が流されたのは越後の国府(こう)であった。現在の中頸城郡板倉町であろうと推定されている。4年後罪を許されたが、配所の越後での生活は明らかではない。「立正安国論」を著し、幕政を批判し、他宗を攻撃して、日蓮が佐渡に流されたのは文永8年(1271)10月28日のことだった。佐渡での生活は極めて厳しいものであったと言うが、同11年(1274)許されて甲斐身延山に隠棲した。鎌倉幕府の専横を怒り、皇威の回腹をはかって、父後鳥羽上皇と共に承久3年(1332)挙兵したが後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ、天皇が隠岐に流された時、資朝は佐渡守護本間城入道によって斬首された。しかし資朝の子阿新丸は、父を斬った山城の弟三郎を討って仇をとったことが「太平記」に出ている。
新潟県の長岡藩の河井継之助をえがいた時代小説 司馬遼太郎の峠
1966年(昭和41年)11月から1968年(昭和43年)5月まで『毎日新聞』に連載され、連載終了の1968年に新潮社上下巻で初版刊行された。
新潮文庫や新装版で多数重版されている。
それまでほとんど無名に近かった幕末から戊辰戦争時の今の新潟県、越後長岡藩家老・河井継之助の名を、一躍世間に広めることとなった歴史小説である。近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至らず、最後には武士として、長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選んだ英雄の悲劇を描く。
『峠』の連載に先立って1964年(昭和39年)1月には「別冊文藝春秋」に河井を主人公にした短編小説「英雄児」を発表している。