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畳たたみ
日本の住宅にとって欠かせない物の一つが畳です。畳があるだけでほっとするという人も多いでしょう。
畳には優れた特質があります。畳が呼吸することで、空気をきれいにしたり湿度を調節したりする働きがあるのです。
日本の気候は高温多湿で、四季があります。この気候変動の多いお国柄に適した素材といえます。
畳は自然の除湿器としての働きも、加湿器としての働きもあるのです。さらに空気中の有害物質を吸着することも分かっています。
このような畳の良さを生かすためには、日ごろからのお手入れが大切です。長くきれいな状態を保つためには、ちょっとしたことで良いのです。
一つ目が掃除機をかける場合、畳の目にそって掃除機をかけるのがポイントです。
二つ目が、雑巾をかける場合は、水拭きではなく乾拭きすることです。畳は湿気を好みません。それに、水を使うと特有の光沢が薄れてしまう原因となるからです。
汚れがひどい場合は、固く絞った雑巾を使うときれいになります。
こうして、日ごろのお手入れをしていても、使用に応じて劣化していきます。そのような場合は、裏返しや表替えなどが必要です。 これらの処置を行うことで本来の色と香りを取り戻し、新品のように優れた効果を発揮します。
最近の襖
最近では、襖は、現代の生活に似合うように、新しくデザインされています。和風モダンという現代風のデザインに、快適性・紫外線カット・通風性という多機能性を組み合わせた、新しいインテリア仕様となっております。
襖は、日本文化の伝統の匠の技に加えて、現代生活にマッチした、モダンなインテリアです。たとえば、エアコンを省エネとして、通風の快適性をそのままに、過ごしやすく工夫されております。子供のいらっしゃるご家庭にも最適です。
襖は、職人の手作業による工事のほうが、家庭大工よりも、比べてみると格段に仕上がりが美しく、また、丈夫で長持ちいたします。現代の襖は、非常に丈夫な材質でできておりますので、小さなお子さんのご家庭でも、安心してお使いになれます。襖は、和紙のあたたかでぬくもりのある空間を演出いたします。日本の気候特有の湿気や温度を調節する機能も備えていますので、夏は涼しく、冬は暖かく、快適に過ごすことができますので、おすすめのインテリアとなっております。
このように、襖のエコ機能は、日本に特徴的なもので、和紙という素材のもつ、生きた見本となっております。襖の職人技術は、大変水準が高く、すぐにリサイクルがきくうえに、すぐに修復できるという利便性も長所としてあげられます。
網戸掃除に大きな効果を期待できるグッズ
網戸掃除を実施する時、色々と面倒な事態が発生してしまって、嫌がる方も少なくありません。そこで網戸掃除を実施する際、少しでも負担を減らす方法として、専用のグッズを使用するという方法があります。昔はそのようなグッズが販売されていなかったので、地道に掃除していくしかありませんでした。しかし網戸掃除に関連しているグッズを購入する事ができれば、楽をしながら綺麗にしていく事ができます。今ではたくさんの網戸掃除のグッズが販売されていて、とても綺麗にする事ができます。基本的にリーズナブルな金額で販売されているだけではなく、使用方法も簡単になっています。初めて使用する方も快適に使用できるように網戸掃除グッズが販売されているので、安心してもらいたいです。実際に網戸掃除グッズを使用する事で見違えるほど綺麗にする事に成功している方もいます。主婦の大きな味方になっているので、深刻な網戸の汚れが目立っている方は実際に試してみて、損は全然ありません。綺麗に掃除をする事ができれば、網戸を安心して使用できるようになります。色んな方法で網戸を綺麗にする事ができるので、気になる方はインターネットで調べていき、最適な方法を選択してもらいたいです。
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和歌山市と言えば和歌山城
和歌山城は、和歌山市の中心部、紀ノ川と和歌川に挟まれた、標高48mの虎伏山にある。紀州藩徳川氏歴代の居城跡で、城は城地の地名から虎伏城とも呼ばれ竹垣城とも称された。天正13年(1585)3月、豊臣秀吉が紀州を平定すると当時 吹上の里と呼ばれたこの地に自ら縄張りを指揮し、本丸・二の丸を築いた。これが和歌山城の始まりで、普請奉行には築城の名人と言われた藤堂高虎と羽田一庵法印があったと言う。秀吉は城を異父兄弟の羽柴秀長に与えたが、秀長は大和郡山城に居城し、重臣の桑山重晴を城代とした。その後慶長5年(1600)、関ヶ原の役には軍功のあった浅野幸長が、甲斐府中から37万石を持って入城。幸長は、内堀・石垣・総掘の増修を行い、翌年6年には町割りを実施、商工業者を集めるなどして城下町の体制を整えた。さらに同18年幸長の没後弟の長あきらが跡を継ぎ、元和5年(1619)長あきらが安芸の国に移封になると、代わって徳川頼宣は徳川家康の第10子で、すでに駿府城にあって50万石を領していたが、この時、2代将軍が秀忠から紀伊一国と伊勢国の一部を加えて55万5千石が与えられた。紀州徳川初代藩主となった頼宣は、将軍秀忠から銀2000貫を受領、ただちに城の増改築に着手。まず天守閣をはじめ城郭を大改修し、大手は東南岡口門より東北n一の橋に改め、南の丸に高石垣を築き、城下も京橋門の北に本町をつくり、広瀬川を越えて新町、鈴丸川流域には北新町を設けた。ところがこの工事があまりにも大規模であったため、幕府から陰謀の疑惑を受けた。今に残る「掘止」の町名は、井原町から西方、海湾に至るまでの掘りを掘ろうとして咎めを受け、工事を中止して因縁から出たものであるという。しかし幕府の疑いも、付家家老安藤帯刀の弁明で事なきを得て、以来和歌山城は、幕府三親藩の一つ紀州藩主の居城として重きをなし、頼宣は元和元年から寛文7年(1667)まで、藩政確立までの重要な時期に領地を治めた。