襖ふすま

近江八幡市の襖ふすまの張替えにスピーディーに対応!!

襖の張替えは、1,450円税込1,595円と全国トップクラスの激安の当店で!!
高品質はそのままに、徹底的に材料代と工程を見直し、
ふすまの張替え料金をお安く致しました。
熟練の技能士が丁寧に施工し全国でも最安価格、料金レベルでお届けします

襖の張替え只今キャンペーン中!! 襖紙には、手漉きの和紙から機械漉きの普及タイプまで 非常に多くの種類が揃っています。 また織物系のふすま紙もあり、 織糸の種類や撚糸の数さらに 印刷やの後加工の 方法により高級なものから 普及タイプまで多くの種類が揃っています。 それぞれの価格については、 お気軽にお問い合わせ下さい。  ※サイズは幅90cm×高さ180cmが 基準です。 これ以上のサイズはお問い合わせ下さい。   尚、お安くしていますので、ご注文は1対つまり2枚から お願いします。 下地処理工程

                                                       クリック>>襖ふすまの種類                  お問い合わせメールフォーム

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襖ふすま紙について

■鳥の子襖紙の種類

新鳥の子襖紙

新鳥の子(普及品)

パルプ紙で漉きも柄付けも機械なので、 価格もリーズナブルです。 種類も多く揃ったお求め易い商品です。   
襖ふすま紙

上新鳥の子(中級品)

上新鳥の子は機械漉きのため 比較的低価格です。 漉き模様や後加工による 多くの柄や材質があり、 種類については 一番ボリュームがあります。
鳥の子襖紙

鳥の子(高級品)

本鳥の子が手漉きで作られるのに 比べ、鳥の子は機械で漉きます。 さまざまな技術によって 紙の風合いも、 手漉きに近いものが出来ます。
手漉き本鳥の子襖紙

手漉き本鳥の子(最高級品)

本来は手漉きの雁皮紙をさします。 その色合いが鶏卵の殻の  淡黄色に似ているところから 鳥の子と呼ばれました。 現在は雁皮や三椏、 木材パルプ等を 混ぜたものもあります。

(画像はイメージです)             雁皮紙(がんぴし)は、ジンチョウゲ科の 植物である雁皮から作られる和紙です。   雁皮の成育は遅く栽培が難しいため、 雁皮紙には野生のものの樹皮が用いられます。 古代では斐紙や肥紙と呼ばれ、 その美しさと風格から紙の 王と評される事もありました。 繊維は細く短いので緻密で緊密な紙となり、 紙肌は滑らかで、赤クリームの自然色 (鳥の子色)と独特の好ましい光沢を有しています。 丈夫で虫の害にも強いので、 古来、貴重な文書や金札に用いられました。 日本の羊皮紙と呼ばれることもある様です。

引き手引き手は、開け閉めの際の襖紙の傷みと 汚れ防止の役目があります。 また、手加工の貴金属や陶器の ものからプラステック製の廉価なものまで 多種多様に揃っています。
引き手 引き手引き手引き手引き手 陶器製 引き手引き手引き手
襖(ふすま)は、中国から伝わった障子が寝殿の間仕切りとして 使われるようになり、中国から伝来の、 隠蔽性の高い厚手の唐紙が使われるようになり、 貴族社会に普及して行きました。 平安時代の貴族達の住宅様式は、 部屋の中に仕切りを作らず、通気性を優先した 寝殿造りと言われるものでした。 今で言うパーティションとして、 屏風などを使用していました。 やがて屏風などに代わるものとして、 障子が中国から入ってきました。  そして寝所に使われる障子を衾(ふすま) と呼ぶようになりました。 当時寝所のことを「臥す間(ふすま)」 と呼んでいました。  「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」 を意味するものであった為です。 襖の語源は衣服のあわせから来ています。 衾(ふすま)も最初は板状の衝立の両面に 絹裂地を張りつけたものだったので、 衣服にならって襖(ふすま)と呼ぶ様になりました。 初期の形状は、かまちに縦桟や横桟を組み両面から 絹布などを貼ったものでしたが、 やがて中国から伝わった厚口の紙(唐紙)が 襖に使われるようになり、 襖と障子が明確に分かれて行きました。 その為、襖のことを唐紙と呼ぶことがあります。   また、障子は明障子(あかりしょうじ) と呼び分けられる事もあります。 武士の時代になり、襖に絵を描き華やかな部屋を 演出するようになって行きました。 そして今に残る数々の襖絵が描かれ 有名絵師が登場しました。 そして江戸時代になり、豪商たちが襖を使うように成り、 少しづつ一般の庶民にに広がって行きました。


長年、住んでいると襖が汚れたり、傷んだりしてくる。特にペットを飼っていたり、小さい子どもがいる家ではより汚れや傷が目立つと思う。自分で貼り替えを行うことも可能だが、手間も時間もかかる。ペットや子どもがいればさらに困難といえるだろう。そこで張り替え業者に依頼すること考えていく。インターネットで検索をすると、襖の貼替え業者のサイトが多くあると思う。ネット環境がない家では、タウンページや地域の広報誌広告などで調べてみるとお店を探すことができると思う。どこの業者でお願いするか、襖の種類をどうするのかを決め見積もりを出すのがよいと思う。襖にも様々な種類があるにで、貼り紙の材質や襖の枠組みなどによって値段が変わってくる、家庭によって、質を重視するのか、子どもやペットが汚すので安くて丈夫なものがよいのか、いくつかの業者の相談しながら、決めていくことが大切だと思う。
襖の種類や業者が決まったら、見積もりを出してもらうのが重要だと思う。襖の貼替え以外にも必要なお金があるのかも確認しておくと、思っていたよりお金が必要だったと後から後悔することはないかと思う。自分たちの予算を業者に伝えながら決めることも大切なことである。これらのことを踏まえながら、襖選びをすれば失敗は少ないと思う。相談を重ねて業者を選べば信頼できるかどうかもわかってくるので、気持ちよく張替えを行うことができるのではないかと感じる。自分たちの家にあった襖選びをして、気持ちよく生活していきたいものである。

襖の張替えをしたいと思っていたのですが、どんなものにしたらいいのか全くわかりませんでした。襖の張替えをしたいと思うものの、それをどこに依頼をしたらいいのかもわからなかったのです。そこでネットで検索をして、いいところを探すことにしました。なんとなく襖の張替えと言うと、ちょっと職人さんでむつかしそうと思うこともありました。しばらくそのままにしていたので、そんなことも思っていたからです。ところが全くそんな事はなく、実施をして本当によかったと思っています。
襖の張替えを探して、一つのところに電話をするととてもいい感じで返事をもらうことができました。そこでその会社にお願いをすることになり、早速どんな襖の張替えがいいのかを相談することにしたのです。
するといくつかの種類があるとのことだったので、それを見せてもらい一番気にいったものに交換をすることにしました。見せてもらった時に、これがいいと思ったのはなんといっても上品なものです。それを見て、ひと目で気にいり行ってもらうことにしたのです。
実施してもらったあとに見ると、品質もいいしとてもいい感じなので大満足です。今後も二階をお願いしようと思っているところです。


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滋賀県近江八幡市

県の中南部、琵琶湖の東岸に位置する市。昭和29年3月、八幡町・岡山村・金田村・桐原村・馬渕村の1町4村が合併して市制を施行、近江八幡市となり、同30年3月に北里村、同33年2月に武佐村を編入、今に及んでいる。市域北部の琵琶湖岸に長命寺山、その南に八幡山などの丘陵が盛り上がる以外、地勢はおおむね平坦。南西境沿いを日野川が北西へ流れ、琵琶湖へ注いでいる。市内には、多数の古代遺跡が散在し、開発の歴史は古い。が、現在の中心市街は天正13年(1585)、豊臣秀次が八幡山(鶴翼山)に八幡城を築き、その山麓に、信長の安土の城下町をそっくりそのまま移して営んだ町屋が、起こりとされている。城は文禄4年(1595)廃されたが、城下町は近世を通じて、湖東地方有数の商都として栄え、多くの「近江商人」を生んだ。今も碁盤目状に整理された街並みや、
小路に沿って建ち並ぶ白壁塗りの家々などに、当時の面影を残している。
基幹産業は「近江米」作りを中心とした農業で、古い伝統をもつヨシ製品・八幡瓦製造、淡水真珠養殖も行われ、国道8号線沿いには機械・電気工場が立地する。沖島では内水面漁業が盛んで、コイ・フナ・アユなどの水揚げがある。見どころとしては長命寺・日牟礼八幡宮・瑞龍寺・願成就寺といった古社寺がある。
「長命寺」市の北西端、琵琶湖岸に盛り上がった長命寺山(333m)m南腹の、海抜250m付近にある天台宗系の単立寺院。山号を姨掎耶山といい、西国33ケ所霊場の第31番札所になっている。寺歴は古く、今から1800年余り前の景行天皇の時代、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5帝に仕えたという武内宿禰が、長命寺山に登って長寿を祈願。推古天皇のころ(592~628)来山した聖徳太子が、
その旧跡に一字を造立、宿禰の長寿延命にちなんで長命寺と名づけた。これが開基とされている。天智天皇の勅願所になるなどして栄えたが、のち衰退。平安初期の承和3年(836)、頼智法橋が諸堂を再興。延暦寺西塔の別院となった。

近江八幡市の開祖 豊臣 秀次

近江八幡市の開祖と言える豊臣秀次は、世に殺生関白の名で知られている。ひどいことをしたという話が伝わっているが、しかしこう言った話は、昔から暴君には付物の話であって、実はなんら確証があるわけではない。そればかりか、権謀術数に長けた石田光成の陰謀説があるとも言われる。もっとも三成の人となりについてもまた異論が多い所ではあるが。秀次は永禄11年(1591)に秀吉の姉である瑞竜院日秀と木下弥介との間に生まれ、英世氏の長子鶴松夭折後の天正19(1591)に秀吉の養子となり、関白職を継いだ。関白になってからの秀次は公家社会に溶け込み、詩歌に親しみ、学を好んでいたと言う。しかし、文禄2年(1593)になって秀吉に次子捨丸が生まれると、養父との間も何やら気まずくなった。秀吉晩年の捨丸に対する盲愛は有名で、これが秀次を焦燥させ、狩猟などに憂さを晴らしていたと思われる。関白とは言っても、独裁者秀吉は太閤として依然健在であり、政治も全て秀吉と五奉行によって行われ、これにいささかの抵抗を試みた
ばかりに、秀次は高野山に追われ、8日後に切腹させられている。さらに哀れをとどめたのが秀次の子女・妻妾30余人である。罪もない女子供が全て京都三条河原で惨殺され晒し首にされた。あまりのむごさに目をそむける人とてなく、これを正当化するために、三成らが秀次の暴虐ぶりを宣伝したものだと言う。

施工事例

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施工可能地域

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 Y様邸

襖と畳を全和室を一度に
張替えました。
これで全面リフォームした様に
明るく美しく成りました。

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源氏襖張替え

 N様邸
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建具施工例
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