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畳のメンテナンスについて
畳は日本の伝統的な室内の床です。非常に吸湿性にすぐれ、また温度調整能力や保温性にすぐれた、日本の高温多湿の気候に合った床のあり方です。畳はウレタンや藁で出来ている畳の中身を畳表が包む形で出来ていて、畳表を通して室内の湿気を吸い取ったり、逆に畳が持っている湿気を室内に放出したりして湿度を調整しています。畳は呼吸しているのです。だから、畳の上にカーペットなどの塞ぐ物を置かないことが大事です。
畳は畳表と畳の中身をかなり太めの糸で縫って繋いであります。そして、畳の縁にあたる部分でそれを補強しているのです。昔は手縫いが主流でしたが、今は業務用のミシンで縫われることが多いです。手縫いの場合は、かなり体力と根気を要する作業が強いられます。手縫いの際はものすごく大きい針を使います。そうやって糸でしっかりと畳の中身まで貫通させるのです。ミシンが主流になった今でも針は太くて大きいです。
畳は出来れば毎年畳表を替えましょう。古い畳表は破れやすくなったり、湿度を上手く調整できなくなります。そしていろいろ、虫食いや腐敗等の住居によくない状態になります。悪い空気を改める能力があるのですが、それも落ちてきます。そしてマメに虫干しをしましょう。それだけで寿命が長くなります。虫干しは日が当たるところに2、3時間も干して乾燥させましょう。それだけで新品と同様になります。
それから畳に水分は禁物です。水拭きはやめましょう。仮に水をこぼしたり、濡らしたりした場合には乾いた布で拭き、水分を残さないようにしましょう。ほこりなどは、掃除機で吸い取るか、あるいは箒等で掃いて、ちりとりなどで取るのがよいでしょう。常に表面を乾かしておくのも大事です。意外と乾燥には強いので、むしろ湿気の方が大敵です。もし、乾いた布で落ちない汚れがあったら、重曹をしみこませた布を固くしばって拭きましょう。
畳は常に呼吸しています。部屋の換気を忘れないようにしましょう。換気は1日に数回、朝と夕方ともう一回くらい、した方がよいでしょう。換気をまめにすると、畳の湿度を調整する能力が増します。フローリングの床よりも、空気をきれいにする能力があるので、呼吸器等にハンデがある人には良いでしょう。それから直に布団を敷くので、ベッド等のやわらかいマットレスよりも骨格に影響が出ない眠りを保証してくれるというメリットもあります。
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古来大分県はその地理上の位置から、大陸文化移入の先進地となり、また瀬戸内海の船運を通じて大和・京都とも結ばれて早い時期から文化の発展を見たところである。
大分の古名「豊の国」は今から1,900年余り前、景行天皇が豊前京都(ぶんごみやこ)に来られた時に白鳥が餅となり里芋が良く実ったので、名付けられたと言われている。
そいて大分の地名も景行天皇が熊襲(くまそ)征伐の際、現在の大分平野を眺めて、広く大きな田が広がるのを観てと大きな田と言う意味で碩田(おおきだ)ち呼んだのが始まりとされる、そしてのちに転嫁して大分と呼ばれるように成ったと伝えられている。
府内(大分市)の北部の宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、全国に存在する八幡宮の総本社される名社である。奈良時代の後期の開基と言われるかが、その起こりについては謎とされる部分がまだ多い。帰化人秦氏(はたし)の創建と言う設。
あるいは宇佐の地を邪馬台国に比定して女王卑弥呼の御陵の上に祀ったのが始まりと言う説もある。
その後平安時代に入ると宇佐神宮信仰と比叡山・英彦の天台密教が結びついて、国東半島に六郷万山28ケ所が建立され、国東文化または六郷万山文化と呼ばれるものが大きく形成された。
鎌倉室町時代に九州北東部威を張った大友氏は、建久7年(1196年)に豊後国の守護に任ぜられた能直(よしなお)を初代としている。
南北朝期には大友貞載が伊豆佐野山の合戦で新田義貞方から足利高氏に内応して以降一貫して足利方につき、京都であるいは豊後で北朝方として活躍した。そして豊後一円に勢力を拡大した。大友氏の最盛期は、キリシタン大名として知られる21代宋麟(そうりん)の時代である。宋麟は一時は九州の北半分の6カ国の覇者として君臨。
神宮寺浦(大分市)には中国船やポルトガル船が来航し府内(大分市)の城下町はキリスト教布教の一大中心地として栄え、教会、神学校、病院などが建てられた。しかし22代吉統の文禄2年(1592年)の朝鮮の役での失態により改易となり、徳川の江戸時代に成ると現在の大分県地域は小大名領や天領などに分割支配され、小藩分立の内に明治維新を迎えた。
大分の沿革と大友宗麟
大分県はわが国でも有数の火山県、そして温泉県として知られている。その温泉を代表するのが別府温泉である。県を訪れる観光客の大部分が一度は足をとどめるところである。秀峰由布岳を背景に、湯煙に包まれた街の風景を良く、観光絵葉書がなどにも紹介されている。別府の東に隣接するのは県都大分市県の行政・経済の中心地であると同時に、日豊本線久大本線・豊肥本線が分岐する重要な交通起点である。県内には2つの国立公園と3つの国定公園と4つの県立自然公園があり飯田高原、久重連山、日豊海岸、耶馬渓など多彩な自然環境に恵まれている。
藩主大友宗麟によってもたらされたキリシタン文化の旧跡や多くの文化遺産がある。また名曲荒城の月の舞台として名高い武田氏の岡城跡など旅情豊かな観光地も見逃せない。
また明治期に大活躍した福沢諭吉は、天保5年(1834年)奥平藩士の5男として生まれ「学問のススメ」など多くの優れた著作を残した。豊前中津の人である。
大分市は約48万人の人口で中核市の指定を受けている。大分県内の人口の4割が集中する都市であり、人口約70万人の大分都市圏の中心で県庁所在地である。九州では福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次ぐ5位の規模である。
(大友宋麟とその城下)
亨碌3年(1530年)大友氏20代義鑑の長子として生まれた。幼名を塩法師丸と言い後に義鎮と改め、剃髪して休庵宋麟と号した。天分19年(1550年)家督を継いで21代目当主となったが、この相続に関しては家内で暗闘があったようである。父の義鑑はこの年上野台(大分市)の大友館内で家臣に切られ絶命している。これを二階崩れの乱と呼ばれる。
天文20年宋麟はフランシスコザビエルを大分に招き西洋事情やキリスト教の事を聞き、領内でのキリスト教の布教を許可した。ポルトガルと通商を開き、鉄砲や火薬をはじめとした珍しい文化を多数輸入した。こうして西欧の文化の開花をみた大分の城下は、今の大分市元町付近から長浜神社に至る大分川の左岸にあって、南北2km東西kmに及ぶ整然とした市街地を為していた。