緒方洪庵と適塾。多くの名言を残しました。

適塾は緒方洪庵が天保9年(1838年)に大阪に開いた蘭学の私塾です。
「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」心境を意味します。
幕末から明治維新にかけて活躍した福沢諭吉・大村益次郎・大鳥圭介、橋本佐内など多数の人材を輩出しました。
緒方洪庵は医者として天然痘の予防にも尽力しました。種痘のための施設「除痘館」を開き、種痘の普及活動を行いました。温厚な人柄で、声を荒げて人を怒ったことがなかったそうです。弟子を指導する際にも笑顔で諭すやり方だったが、塾生の生活態度や学習態度に関しては厳格でした。「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生は感じていました。
医師であった洪庵ははじめ医学中心の塾をめざしていました。しかし、徐々に蘭学の基礎教育を重視するようになります。幕末になり蘭学を通じて世界の変化を感じていた洪庵は世界のことを理解できる幅広い人材を育成したいと考えました。
人のために生きて自分のために生きないということが重要である。楽をせず、名声や利益を考えず、自分を捨てて人を救うのがよい。人の命を救い、人々の苦しみを和らげる以外に考えることは何もない。」と言う名言を残しています。

江戸時代から今日にいたるまで、大阪は商業の中心地ですし、商人の町でもあります。
幕府は大阪を直轄地にしましたが、大阪では自治が重視されました。こうして大阪は階級社会による縦社会ではなく建前ではなく横並びで競争による社会が根付くことになりました。朝廷があった京都のような序列を重んじる侍文化や貴族文化ではなく、自由闊達な雰囲気がみなぎる町人の文化の町ともいえます。
緒方洪庵は備中(現在の岡山県岡山市)の出身です。武士の三男ですが、体が頑強ではなかったので、医師をめざしました。そうした地方出身である洪庵にとって、大阪の町は居心地のよい場所であったようです。医師として・また教育者としての活動を通じて高名になった洪庵は幕府より再三の将軍の奥医師としての江戸勤務の誘いを受けます。足利藩の侍医ではありましたが、実質的には町医者であり自由人であった洪庵は大阪を離れて、江戸で将軍家の侍医になることを拒む気持ちが強かったようです。また、大阪から江戸への引越し費用もかかるし江戸では住居も新築しなければなりませでした。そうした金銭的な費用も大きな負担でした。大阪での町医者としての自由な暮らしではなく、将軍家の侍医となれば、さまざまな伝統や因習にしばられて生活しなければなりませんでした。
江戸では様々なストレスを抱えて生活をしていたようです。江戸では「西洋医学所頭取」にも任じられています。洪庵は江戸に出て、一年あまりで急死してしまいます。大阪での自由な町医者での生活をきっと、なつしく思い描いたことでしょう。

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●緒方洪庵と適塾。多くの名言を残しました。