大阪城のお堀と大阪の陣での家康の策略
大阪といえば太閤秀吉が作り上げた有名な大阪城があります。
大阪城は南側以外の周囲をお堀に囲まれた強固な城で、攻めるのは非常に困難だと言われていました。それを覆したのが大阪での冬の戦があった1614年のことでした。
この時に大阪城側は和睦の条件の一つである大阪城の二の丸と三の丸を壊してしまうということを受け入れてしまいました。惣構は相手側が、二の丸と三の丸側は大阪城側が埋め立てをするということになっていました。しかし相手側はこれをうまく利用してなんと惣構だけではなく、二の丸と三の丸の堀までを埋め立ててしまったのです。この堀の埋め立てによって大阪城側は丸裸同然になってしまいました。残るは内堀だけです。これが相手側の狙いで、翌年の夏に再び開戦した時には大阪側は城に閉じこもっているわけにはいかなくなってしまい、城の外での戦いを余儀なくされてしまいました。これが大阪側の大きな敗因だったと言われています。
本来ならば戦の状態からいってこの条件までのむ必要はなかったのですが、相手側の心理作戦にまんまとひっかかってしまった大阪側が素直に条件をのんでしまったのでした。それは城主豊臣秀頼の母親の淀君が落城を2度も経験しており、城攻めに対してかなりのトラウマを持っていたということが大きかったといえます。威力はほとんどない遠くまで飛ぶだけの大砲をその城主の淀君のいた奥御殿っや天守に打ち込みました。これが効果絶大だったのです。実はこの時に淀君の側近の侍女2人がその大砲にあたって亡くなっています。それがますます恐怖心をあおる結果となりました。淀君は息子秀頼と城さえあればまた自分たちの世を築けるに違いないと信じて、息子と城を守るために条件をのみました。
ところが相手側が条件を破って二の丸と三の丸の堀まで埋め立ててしまいました。その時の相手側の言い訳は雇った者たちが勢いあまって埋め立ててしまったというものでした。これを知った大阪側は愕然としてしまいました。現在ではこの惣構があった部分には商店街があります。
また三の丸跡の辺りには現在は桃園や遊歩道ができておりまして、大阪の市民の憩いの場になっています。かつてそこで戦が行われていたなどとは考えられないくらいの静かな地となっています。本丸などの跡には現在は公園ができていて、こちらも市民の憩いの場になっています。しかし東側の外堀は総事業費25億円をかけて3年がかりで再現されております。