佃煮の歴史は長く深いのです
江戸時代初期、大阪の佃村の漁民達が自家用の惣菜として作っていた小魚煮が起源のようです。徳川家康が本能寺の変の直後に岡崎城まで逃げ延びる際に、大阪佃村の庄屋や漁師たちが船と小魚煮を道中食として提供してくれたことに対する恩恵として、江戸でも特別の漁業権を与えたことが始まりと言われています。家康は名主森孫右衛門に摂津国の腕の立つ漁師を江戸に
呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせたのだそうです。彼らは江戸の隅田川河口に移住しました。
そして、東京湾で 獲れた新鮮な小魚やアサリを、大消費地である江戸の町中に持っていくために醤油と砂糖で甘辛く 煮て保存しやすくしたのです。佃島にたくさん加工場があったことから佃島煮、それが佃煮といわれるようになりました。佃煮は町中に広まり多く売り出すようになりました。そして保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物、土産物として各地に佃煮を持ち帰ったため全国に広まったとされています。
明治10年の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量に佃煮製造が命じられ、明治 27年の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられて、大量生産が行われるようになりました。 戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた佃煮になじんでおり、これが一般家庭の副食となり日常食となったのだそうです。以来、各地のお土産物には、その土地の豊富な材料を使用して作った佃煮が定番となりました。家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した際、こぞって公を助けたのが佃の漁民だったのです。
1582年6月2日早朝。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいました。見つかれば、信長の盟友である家康も当然標的です。なんとしても岡崎城へもどらねばと家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとりました。川を渡る舟が無かった時に救世主のごとく現われたのが、近くの佃村の庄屋、森孫右衛門を筆頭とする漁民たち、手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮の佃煮を道中食として用意したのです。
気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮、佃煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもありません。以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになりました。後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもあります。佃煮には、昔からの深い歴史がある食べものという事がよくわかりました。