大阪冬の陣の真田丸と幸村の活躍!

豊臣秀吉の気付いた大阪城は古今無双の堅城であったが、そんな大阪城にも弱点が存在した。それは大阪城の南方にある平野口周辺であり、ここは広い平野が広がっているところに空堀が存在しているだけであった。それに目を付けた真田幸村こと真田信繁は、大阪城の南側に真田丸を築き、大阪城の弱点を補うことを考えた。そして1614年夏、徳川家康は諸大名を従え、豊臣秀吉の息子である秀頼が籠る大阪城を包囲した。秀頼によって高野山より招聘された真田信繁は、自ら最前線の真田丸に赴き、徳川軍に対峙する。一方徳川家康も、真田丸周辺が大阪城の弱点であることを見抜き、その周辺に前田利常、井伊直孝、松平忠直ら2万5000ほどの軍勢を配置する。対する豊臣軍も真田信繁のほかに、長曾我部盛親、後藤基次(又兵衛)らの精兵5000を配置し、これに当たらせた。当初、家康は利常ら真田丸を担当する諸将に攻撃を控えるように指示しており、彼らもそれに従い土塁や柵を築くばかりで攻撃を開始しなかった。信繁はそんな徳川軍に対し、近くの小高い丘より射撃を加え、彼らの作業を妨害した。さらに、信繁は執拗に挑発をし、前田利常を引きずり出すことに成功する。前田利常は、真田丸に攻めかかるも、城壁に取り着いたところで、豊臣軍からの射撃を受け多くの損害を被ることになった。またそれを知った井伊直孝や松平忠直も攻撃に参加するものの、徒に損害を増やすばかりであった。結局徳川軍は真田丸より撤退し、大阪夏の陣の緒戦は豊臣軍の勝利に終わった。徳川家康は、正攻法で大阪城を攻めることを諦め、多くの策を講じる。真田丸には、真田信繁の叔父信伊をはじめとした信繁に内応を促す使者が次々に訪れた。しかしながら信繁はこれをすべて断り、真田丸の臨戦態勢を崩すことはなかった。ところが、徳川軍は豊臣軍の総大将である秀頼、その母の淀君に対し心理的圧力をかけることを目的に、大阪城の本丸に大筒を打ち込んだ。その作戦は功を奏し、徳川軍は豊臣軍と和議を結ぶことに成功する。この時の和議の内容は大阪城の"惣"堀を埋め立てることであった。しかし家康は"総"堀を埋めるのが条件と豊臣軍を騙すことに成功し、大阪城の「総ての堀」は埋められてしまった。裸同然となった大阪城にもはや防御力などなかった。またこの時真田丸も破壊された。その後家康は1615年夏に再び大阪城に攻め入り、大坂夏の陣が始まった。豊臣軍は大阪城に籠城することもかなわず、寡兵ながら場外に打って出て徳川軍の攻めかかった。しかしながら、豊臣軍によって招聘された有能な将は次々に討死し、信繁も家康の本陣まで突撃するも最後は力及ばす、討ち取られた。その後秀頼・淀君らは自害し、大阪城は炎に包まれた。ここに大阪城は落城し、豊臣家は滅亡したのである。

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