先物取引の歴史を築いた男 豪商淀屋
江戸時代に大阪の中之島で豪商と呼ばれた淀屋について、以下記載します。
豪商の淀屋は大阪の中之島に米市を設立し、これが当時の米の相場の基準になりました。米市以外にもいろいろな事業を手掛けて巨大な冨を築きますが、その影響力を無視できなくなった当時の幕府により、財産没収されました。
淀屋の創業者岡本家によるものを前期淀屋、財産没収後の牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼びます。現代の大阪中之島にかかる淀屋橋にもその名を残しています。 財産没収の表向きの理由は、町人の身分を超え贅沢な暮しが目に余るというものでした。しかしながら、当時の諸大名に対する膨大な金額の貸付けが本当の理由であろうと推定されています。
初代淀屋当主の淀屋常案は、大阪の役において徳川方を支持しています。その時の功績が認められて、300石の土地と名字帯刀が許されました。菩提寺は大阪の大仙寺です。また淀屋常案は大阪中之島の開拓にもつとめ、大阪大学医学部跡地の常案町、常案橋にもその名を残しています。 淀屋は大阪中之島に米市を設立しました。この時に中之島へ渡るために自費で土佐堀川に淀屋橋をかけたとされています。
当時の全国の米の収穫は2700万石程度であり、そのうちの200万石程度がこの大阪中之島で開かれていた米市で取引された模様です。この取引は世界の先物取引の起源とされており、淀屋はこの米市での商いで巨万の富を得ています。
当時の井原西鶴は日本永代蔵の中でこの大阪中之島の淀屋の繁栄ぶりを記載しています。 その後、五代目当主である淀屋こうとうの代に、淀屋は幕府により財産処分となりました。この財産処分の事を闕所と呼びます。この闕所時に幕府に没収された額は金銀共に各々12万両にもおよびます。また初大名に貸しつけていた金額は現代の額に換算すると約100兆円とも推定されています。 これらの淀屋の発展と凋落ぶりが、1708年に近松門左衛門により浄瑠璃である「淀鯉出世滝徳」(よどこいしゅっせたきのぼり)に描かれました。岡本家には4つの分家があり、そのうちの一つである大豆葉町家は現代も続いています。
後期淀屋は、牧田仁右衛門が暖簾分けした店が発祥となります。牧田仁右衛門は出身地に店を開き、淀屋清兵衛を名乗りました。牧田家はその後8代まで続き、鳥取藩等から献金を求められる等、多額の資産を明治時代まで有していたと思われます。しかしながらこの岡本家の商業活動は資料がほとんど残っておらず、その内容の詳細は不明です。