大塩平八郎の乱。豪商らに対して天誅を加えるべしと檄文を回し決起を促しました。
皆さんは大塩平八郎の乱という事件を御存じですか。中学高校の日本史などで、何となく名前を聞いたことがあると言う人が大半かもしれません。元与力で旗本であり、陽明学者でもあった大塩平八郎はどうして乱を起こしたのでしょうか。
それを知るために、まず乱が起こった時代背景について簡単に説明をします。文政2年(1828年)の九州大洪水に始まり、断続的に起こった天災によって諸国に不作が続いたため天保7年(1836年)は全国で未曾有の大飢饉が起こっていました。続く凶作や飢饉、また幕府による米の買い占め行為等が起こった事によって米価は暴騰し、特に大阪では米が手に入らない庶民達の間で飢餓による死者が続出しました。しかしその当時の大阪は天下の台所と言われるほど物流の流れが盛んな土地であったので、米問屋や商家といった場所には多くの米や食糧の貯えがあったのです。
ある所には米があるのに庶民にはそれが行き渡らない、庶民だけが飢え死んでいくという状況がその当時の大阪の現状でありました。このような状況の中、元大坂町奉行の与力として活躍し陽明学者でもあった大塩平八郎は市中の惨状を何とかしようと、息子の格之助を通じて救済策を上申します。しかしこの幾度に渡る上申は拒否されました。
このような状況の中で、大塩平八郎は大阪町奉行諸役人と特権豪商を相手取って彼らを誅罰し、その隠匿していた米や金銭を困窮する大阪の庶民らに分け与える為に挙兵したのです。豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、事前に自らの蔵書などを売った金を近隣の農民に分け与え、挙兵の参加を促しました。
そして乱の起こった1837年2月19日、既に内通者によってこの計画は奉行所に察知されてしまっていましたが、大塩親子は窮民の旗を掲げて自らの私塾に集った門弟20余りと共に大阪の自邸に火をつけました。火を放った後、彼らは豪商がひしめいていた船場に向かって行軍し、近隣の農民や庶民らをその行軍に引き入れながら南下しました。しかしこの一党は幕府勢と多少の小競り合いをした後、一日持たずに四散してしまいます。この時放たれた火は乾ききった大阪の街を翌日の朝まで燃やし続け、大阪市中の1/5
を焼きつくしたと言われています。
その後大塩親子は40日の大阪市中潜伏を経て自刃、乱は終結しました。結果としてこの乱は失敗に終わりましたが、元幕府の役人である与力であった大塩自身が重要な直轄地であった大阪で乱を起こしたという事実は幕府や諸藩の要人達に大きな衝撃を与えました。また、この事件が発端となり全国で同様の乱が頻発するようになり、彼らは大塩残党などと呼ばれました。彼の起こした事が正しかったかどうかは実際のところ分かりません。
この乱によって大阪の多くが焼け、それによる死者もまた出たからです。しかし、国の行く末を憂い困窮する民を心から憂いた大塩平八郎の信念は今も語り継がれているのです。
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